中尾能阿彌(能阿弥)(なかお のうあみ、1396年(応永3)~1471年(文明3))
本名は眞能(真能)(さねよし)
始めは越前朝倉氏に仕えていたが、後に、足利義政に仕えて能阿弥と称して、
同朋衆の一人に数えられる。
絵画制作、書画の鑑定・保存、表装、座敷飾りの指導、連歌、香道など幕府の芸能全般にわたり
活躍を示し、特に画では牧谿に深く傾倒し水墨画を多く残して後に阿弥派と称される一家を形成。
また、連歌師としても北野連歌会所奉行となるなどした。
伝能阿弥筆とした水墨画は数多く残るが、確証のあるもので残る物は
「白衣観音図」、「花鳥図屏風」、「蓮図」などで数は少ない。
能阿弥の子に芸阿弥、孫に相阿弥がおりいずれも将軍家に仕えている。
一説には1396(応永3)~1494(明応3)
印名は「眞能」(「真能」)「能」など