安藤広重(あんどう ひろしげ、1798年(寛政9)~1857年(安政5))
江戸出身、本名は徳太郎
江戸の町火消の安藤源右衛門の子として生まれる。
15歳のころに歌川豊国の門に入ろうとするが、門生多数の理由で断られ、
同じ歌川派の歌川豊広に入門、以降絵師と家業の火消しを兼業する。
1823年ごろより画に専念、始めは一幽斎廣重と号して花鳥画を多く描いていたが、
1828年頃、師豊広の没後頃より一立齋の号を使い始め風景画を多く描く。
後に欧米でその大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高く
「ヒロシゲブルー」と称される。
また、代表作のひとつ「東海道五十三次」では遠近法が用いられ、
風や雨を感じさせる立体的な描写などの技術の高さもあるが、
当時の版画技術の向上で庶民から絶大な人気を得た。
印名は「廣重」(「広重」)「東都弐家」「安藤之印」など