幸野 楳嶺(こうの ばいれい、弘化元年(1844)3月3日~明治28年(1895)2月2日 52才没)
京都生まれ。名は直豊、幼名は角三郎、字は思順、号は楳嶺、他に鶯夢、長安堂、青龍館、六柳北圃など多数。
円山派の中島来章の門に入門する。後に四条派の塩川文麟のもとで号を楳嶺と改める。
楳嶺の特徴と言えば、教育的にして知性と感情が調和したような作風を指すのが一般的である。
応挙の写生主義と南画の精神主義の調和を目指し、艶麗で華やかな花鳥画を得意とした。
また教育者としての面も強く出ている。後進の指導にも優れ、
楳嶺四天王の竹内栖鳳、都路華香、谷口香嶠、菊池芳文をはじめ、川合玉堂、上村松園らを育て、
現代京都画壇の基礎を築いた。
京都府画学校教師、帝室技芸員