横萩一光(よこはぎ いっこう、1850年(嘉永3)~1924年(大正13))
越中国(富山県)出身。本名は徳松。
初代一光の子として生まれる。
幼少の頃より父の下で製陶を学び、父の仕事の補佐をしていたが、
1868年頃父と共に石川県金沢にて卯辰焼に従事する。
71年頃には鶯谷久田窯を譲り受けて製陶を開始(1879年ごろとする説もある)。
その後、鶯谷窯を野崎佐吉に譲り、82~83年頃には越中安居焼より招聘を受け陶技指導を行った後、
数年間金沢に戻り製陶する。またこの頃に原呉山より楽焼と茶の湯を学んでいる。
しかし96年の大洪水の際に窯が大破し、以降は京都で作陶を行なった。
当所は青木木米風の重厚な絵付けをした作品が多かったが、後年は次第に仁清風の雅趣のある
作域に変化を見せ、花鳥・草花・昆虫などのモチーフを用いて繊細な絵付けを施した。
尚、初代没後に一光を襲名し「臥龍山一光」と名乗り、また本人2代の没後は
三男の一造が一光を襲名して京都で作陶を続けたが、初代から3代の中ではこの2代一光が
最も陶技に優れており、当時より同時期の鶯谷窯従事の鶯谷庄平、瀬戸の加藤春岱らと共に
近世最後の名工と称された。
陶印は「横萩」「一光」「瓢箪枠一光」など