河田小龍(かわだ しょうりょう、1824年(文政7)~1898年(明治31))
土佐国(高知県)出身。本名は篤太郎、松梁、襲、維鶴
土佐の船役人土羽玉助の子として生まれる。(後に河田と改姓)
幼少時より神童と称されるほどの知識を持ち、16歳の頃に藩の儒学者岡本寧甫に学問を学んだ後、
京都で中村竹洞について書、狩野永岳について狩野派の画技を習得、
さらに江戸長崎などにも遊学して知識を増やす。
また、郷里では、私塾墨雲洞塾を開き多く画、詩文を教え文人画家として活躍。
1852年には藩命により、アメリカに遭難していた藩人中浜万次郎(ジョン万次郎)の取調べに対し
「漂巽記略」としてまとめるなど貢献を示す。
万次郎から聞きだしたアメリカ文化を坂本龍馬に伝えたのも小龍であったとされている。
明治維新後は高知県庁に出仕したが、晩年は京都、広島などに住んで画業に専念した。
印名は「案山子」 「東方先生家風」 「丗外人」 「天巧如枢」 「鍛誉溜」 「山水先生」
「明月江上清風」 「玉淋之印」 「自成一家」 「書禅」 「皤山」 「皤山逸先」
「河小龍印」 「古之人」 「墨雲」 「人北石品不窮貧」 など