淺井柳塘(あさい りゅうと、1842年(天保13)~1907年(明治40))
本名は永吉(幼名)のち龍。字は子祥
出身地には京都説と徳島説があるが不明。
はじめ木下逸雲、日高鉄翁に長崎南画の技法を学ぶ。
その後、谷口靄山、貫名海屋に師事、更に清の画家徐雨亭にも学び元明の古法を研鑽。
明治以降は1873年に京都博覧会の際席上揮毛作家に選出、1880年に京都府画学校創設に際して
教師として招かれるなど認められ、その後の展覧会出品でも33年第一回全国南画共進会では
二等銀牌を受賞。
晩年は京都を拠点に全国を巡遊、主に緻密描写の南画山水を得意したほか
書・詩文にも秀でた。明治40年11月23日65歳で没する。
印名は「浅龍之印」「櫻橘」「白山」「白山居士」「白山人」「子羊」「山客」「癯橘」(「痩橘」)など