狩野正信

狩野正信(かの まさのぶ、1434年(永享6)~1530年(享禄3))
伊豆出身。姓が藤原、名は伯信

出自は狩野出羽次郎藤原景信(伊豆国加茂郡狩野村の出身の為狩野姓を名乗る、伊豆の豪族であったともいわれている。) の長男として生まれ、幼少のころより画を好み周文・小栗宗丹に師事。
足利義政将軍の御用絵師をしていた宗丹の推挙により足利家の近侍となり
銀閣寺障壁画製作途中に没した際に、そのあとを受け継ぎ以降も将軍家の御用を務め、
これにより画名が一躍有名となり後の狩野派の基盤を築くこととなる。
(この件に関して、宗丹の後を引き継ぐのは雪舟とも言われていたが、帰朝していた雪舟が大坂泉州の寄宿先で、正信筆の花鳥図屏風を見た際、賞賛して宗丹の後を継ぐのは近侍正信がふさわしいと将軍に助言し、自ら辞退したと言われる)

代表作「周茂叔愛蓮図」が国宝に指定されている。

印名は「伯信」 「正信」 「祐勢」 など