種田山頭火

種田 山頭火(たねだ さんとうか、明治15年(1882年12月3日)~昭和15年(1940)10月11日 58才没)
山口県西佐波令村(現・山口県防府市大道)の大地主の出身。

1911年、荻原井泉水の主宰する俳句雑誌『層雲』に寄稿。
1913年、井泉水の門下となる。 生活苦から自殺未遂をおこしたところを
市内の報恩禅寺住職 望月義庵に助けられ寺男となる。
1916年には、『層雲』の選者に参加。
1924年、得度し「耕畝」と名乗る。翌年、寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行う。
1932年、郷里山口の小郡町に「其中庵」を結庵。
1939年、松山市に移住し「一草庵」を結庵。

自由律俳句の代表として、同じ井泉水門下の尾崎放哉と並び称される。
しかし、その作風は対照的で、「静」の放哉に対し山頭火の句は「動」である。

代表句

鴉啼いてわたしも一人
鈴をふりふりお四国の土になるべく
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
まつすぐな道でさみしい
また見ることもない山が遠ざかる
分け入つても分け入つても青い山