十一代 精中宗室 玄々斎

十一代 精中宗室 玄々斎(げんげんさい、1810年(文化7)~1877年(明治10))
本名は千代松のち栄五郎(幼名)、宗室

裏千家十一世家元 精中宗室

三河国領主松平乗友の子として生まれた。
1819年、裏千家10世認得斎の養子となり、認得斎や大徳寺大綱和尚の下で茶道はもとより、
謡曲、香道、華道、和歌、書、国漢文に至るまで、多岐にわたり文学を学び
自我の研鑽に努め、17歳の頃に認得斎の没に伴い宗室を襲名。
また認得斎長女まち子と結婚。

主な仕事としては、歴代の家業であった加賀金沢前田家や、伊予松山久松家にての茶道奉行の他、
松平家出身ということも有り、尾張徳川家にも仕えている。
さらに、1839年の利休250年忌の法要茶会では、3千家の中心的宗匠として催し、
それに伴い邸内の増築を行っている。
また、妻のまち子氏が1845年に早死しており、その後、妹であったてる子氏と再婚。

印名は「今日」 「宗室」 「玄々」 「虚白画」 など。