川喜田半泥子

川喜田半泥子 (かわきた はんでいし、1878年(明治11)~1963年(昭和38))
伊勢の木綿太物を扱う豪商、川喜田久太夫の家に生まれる。
本名は、幼名善太郎のち久太夫政令(ひさだゆうまさのり)。号は、泥仏道、無茶法師、莫迦耶廬主人

幼くして両親と別れ1歳の頃家督を相続。16代久太夫を襲名する。
祖母から禅などの教育(現在で言う帝王学)をうけて早稲田大学を卒業。
家業のみならず1903年に百五銀行の取締役、1919年は頭取、45年は会長に就任、さらに三重県会議員なども務めた。
その間、陶芸、書、絵画など多岐に渡る才能を示した。
特に陶芸では1912年より楽焼を開始、29年石炭窯を自宅に開窯。
1934年、自身設計の登り窯を築窯。1937年に魯山人の星岡茶寮にて個展を開催。
1939年、金重陶陽、荒川豊蔵らとともに「からひね会」を結成、46年には広永陶園を設立。
特に茶陶に力を入れていたが形式ばった造形や表現ではなく自由な発想で作品を展開、
書、絵画の作品においても抽象化された仏をモチーフに用いるなど独自の世界を発展させている。
現在、市場においても高い評価がある反面、贋物も多い。