秦蔵六

秦蔵六(はた ぞうろく、6代、1952年(昭和27)~(現在))
京都府出身。五代の子。師は五代蔵六。

初代蔵六が、山城(京都南部)から今日に上がり当時鉄瓶製作の大家であった龍文堂(二代)に
鋳金技術を学びさらに中国(漢・周)の銅器を独自に研究し独立。
孝明天皇の御印、将軍徳川慶喜の黄金印をてがけ明治期には宮内省の命により
明治天皇御璽・大日本国璽(印鑑)を製作し名声を得た。
以降各代研究、模索を続け現代に号・蔵六と鋳金技術を一子相伝で伝えている。
蔵六銅器の特徴は中国の青銅器写しであるが、ところどころに金箔を張った作品が多く見られ、
それは時代経過と共に金箔がはがれている様を表している蔵六独特の意匠であり高く評価されている。

増田三男

増田三男(ますだ みつお、1909 (明治42)~ 2009(平成21))
埼玉県出身。東京美術学校金工科彫金部卒 同校研究科終了。

大学中の1933年に第14回帝展にて初入選。以降も出品・受賞を続ける。
富本憲吉の指導を受けながら作品を制作。

戦後は1948年より富本の主宰する新匠美術工芸会に出品。日展、日本伝統工芸会にも出品を重ね、
62年日本伝統工芸展東京都教育委員会賞、69年同展にて朝日新聞社賞などを受賞、
91年に彫金技術にて国指定重要無形文化財(人間国宝)の認定を受ける。

銀、銅、黄銅、鉄などの一枚板を打ち出しして更に細やかな蹴彫りや象嵌細工を得意としその意匠には
動物、植物、風景などを用いて日本の季節感を表したものが多い。
作品は花瓶、小箱、燭台、水差、水指、皿など。

落款名は「増」など

畠春斎

二代目 畠春斎(はた しゅんさい、1944年(昭和19)~2007年)

父初代畠春斎の下茶の湯釜を制作し1971年に日本伝統工芸展初入選。
以降現在まで同展を中心に出品し入選27回を数え、73年日本伝統工芸展奨励賞、
78年日本伝統工芸展日本工芸会長賞を受賞。
父の歿に伴い82年に2代春斎を襲名。

他、79年に日本金工展文化庁長官賞、92年に伝統工芸保持者選賞など。

当初は無地紋や霰(あられ)紋といった伝統の茶の湯釜を製作していたが
次第に独自に造形力を発揮。
現代感覚にあった斬新な作品を残し特に線状紋の研究には余念がなかった。

印名は「春斎」 「貮代春斎」 「畠重男印」 など

蓮田修吾郎

蓮田修吾郎(はすだ しゅうごろう、1915年(大正4)~ 2010年)
石川県出身。東京美術学校工芸科鋳金部卒

東京美術学校にて高村豊周に学ぶ。
戦時中は出兵となり主だった展覧会出品などは戦後からとなり1949年代5回日展にて初入選。
以降日展を中心に出品。
1951年特選・白寿賞、53年北斗賞、59年の文部大臣賞の受賞を経て62年に日本芸術院賞に選出。
在学中より従来の鋳物的な工芸ではなく新しい金属造形を模索し独自の浮彫り技術を確立。
作品は工芸品の枠を出た空間芸術にも創作意欲を出しその発表の場として78年に金属造型作家展を創設。
代表作に北方領土返還モニュメント「四島のかけはし」がある。
また同展を基盤としてドイツの造形作家らと交流を深め技術を提供、
82年にはドイツ連邦共和国功労勲章1等功労十字章を受章された。
国内では87年に文化功労者に認定、91年に文化勲章を受章した。

印名は「修吾郎」 「修吾郎印」 「修」など

長野垤志

長野垤志(ながの てつし、1900年(明治33)~1977(昭和52))
愛知県出身。本名は松蔵。

最初は画家を志して1917年に上京、しかし関東大震災を機に工芸に転向して
鋳金家山本安曇に師事。
1928年、香取秀真の七日会に入会。
1931年、名古屋の釜師伊東和正に茶の湯釜製作の指導を受ける。
1933年、帝展にて特選を受賞。

戦後は日展や日本伝統工芸展などに出品して59年にNHK会長賞を受賞、
63年「茶の湯釜」製造技術により国指定重要無形文化財(人間国宝)に認定。
「あしや釜」「天明釜」などの古作・名品型をよく研究してその模作を制作。
また、そうした古作を現代風にアレンジして斬新なデザインを展開する。
特に製造過程上困難とされていた「和銑釜(わずくかま)」の復元に成功させた技術は高く評価されている。
釜のほか鋳造作品として銅や銀を用いた花瓶や壺などにも秀作を残す。

西岡小十

西岡小十(にしおか こじゅう、1917年(昭和6)~2006(平成18))
佐賀県唐津市出身。

1953年から約18年間唐津古窯跡調査に従事。
71年に小山冨士夫に指導を受け割竹式登窯小次郎窯を開窯。
1981年荒川豊蔵の指導の下、小十窯を開窯。
1999年、石川県にも加賀唐津辰之口窯を開窯。
1996年、ギャラリー堂島にて「小次郎窯三人展」を開催。2006年まで毎年同ギャラリーにて個展を開催。
1996年「傘寿記念展」を日本橋三越にて開催。
無所属作家の為、特に目立った受賞歴などはないが現代唐津焼の第一人者で
小山冨士夫から「唐津の名手」と称されるほどの技量を持ち、
長年の古唐津研究により絵斑唐津、梅華皮(かいらぎ)といった古典技法の復元に成功。
茶陶を専門に焼き茶碗、花瓶、水指など風合い豊な情景を表現している。

陶印は「小十」など

野上龍起

野上龍起(のがみりゅうき、1865年 ~ 1932年)

大島如雲に師事。
東京美術学校依嘱制作の皇居前の楠公像、上野公園の西郷隆盛像の鋳浚仕上げを担当。

写実を得意とし、作者の鋭く優れた描写力は類まれなるもので、
細部に亘って一切手を抜くことない精緻な技巧が凝らされた逸品です。
亀の一瞬の表情や、甲羅、皮膚、爪を立て力いっぱい歩む足、愛くるしい親子の姿など、
見れば見るほど作品の魅力に引き込まれていきます。
1900年のパリ万博にも、得意の写実と技巧を凝らした亀数点を出品。

長野烈

長野 烈
(ながの いさお)1945年生
1972年日本伝統工芸展に初出品。以後、同展を中心に日本金工展、伝統工芸新作展などで作品を発表。
78年日本金工展にて文化庁長官賞を受賞。
また、個展を銀座和光、壷中居、三越、ホテルニューオータニなど有名ギャラリー・百貨店などで度々開催。

日本工芸会正会員

中川浄益

中川浄益(なかがわ じょえき、1593年(文禄2)~1670年(寛文10))
京都出身。本名は重高のち紹益のち淨益。

初代紹益の長男として生まれる。
家職の銅器茶道具制作に従業し、紹益の名前を受け継ぎ、千宗旦の好み物を多く制作。
晩年に、当時の文化人の一人佐野紹益と同じ名前で紛らわしいとされて、
4代千宗左(江岑宗左)の申し付けにより、淨益と改名し、以降代々それを受け継いでいる。

千代鶴是秀

千代鶴是秀(ちよづるこれひで 1874~1957、84歳没)
本名を加藤 廣。米沢藩代々の刀匠の家系を受ける、七代加藤長運斎綱俊の孫。 不世出の名鍛冶。
鉋と言う道具でありながら“用の美を持つ美術的作品”にまで高めた人で、刀で言えば正宗と言った所。従って高額な名刀並みの価格で現在販売されている。

刀匠の家系である叔父の七代運壽齋石堂是一に師事。
叔父に当たる八代目石堂寿永(八代目石堂是一)からは刃物鍛冶の技術を学んでいる。

十九歳の頃から既に「千代鶴是秀」という鍛冶名を決めていたが、
やがて関東一円はもとより関西方面にもその名は名人として鳴り響くようになる。

その作品の種類は幅広く、深い探究心とそれを具現する技術に支えられ、
鑿、鉋は勿論のこと、切出し小刀、玄翁、彫刻刀、鋏、刳小刀、剃刃等
それぞれ第一人者よりもむしろ巧く作っている。

妥協を許さない丁寧な仕事ぶりと、確かな造型の技術とセンスとによって
造られた作品からは品格というものが滲み出ている。

当時一般的に市販されていた是秀の鉋には銘として
「藤四郎」、「是秀」、「夕陽山」、「毛六」、「春の湖」、「渓間の華」、
「花吹雪」、「春駒」、「延壽」、「瑞雲」、そして「あしたの夢」など詩的想像力をかき立てる美しい切り銘 の鉋があります。