帖佐美行

帖佐美行(ちょうさ よしゆき、1915年(大正4)~2002年(平成14))
鹿児島県出身。本名は良行。

幼少時より芸術家になる事を決心する。
13歳の頃に上京、15歳で彫金家小林照雲に入門。
以後、約10年間修業した後、更に1940年より海野清に師事。
この頃から美術協会展や文展に出品・受賞を重ねている。

戦後は日展に出品して54年「龍紋象嵌花瓶」、55年「回想銀製彫金花瓶」で二年連続特選を受賞、
62年には「牧場のある郊外」にて文部大臣賞を受賞、
65年前年の日展出品作「夜光双想」により日本芸術院賞を受賞。
光風会展にも出品を続けたが86年に光風会は退会している。
他、78年紺綬褒章(以後6回受章)、87年勲三等旭日中緩賞・文化功労者表彰、
88年鹿児島県民特別賞、93年文化勲章を受章。
多彩な文様が彫られた緻密で優美な作域を特徴とした香炉や花入などを制作、
近代彫金工芸の第一人者といわれる。

印名は「美行」など

高村豊周

高村 豊周(たかむら とよちか、明治23年(1890)7月1日~昭和47年(1972)6月2日 82才没)
鋳金家。高村光雲の三男として東京に生まれる。兄は高村光太郎。

津田信夫に入門、1915年東京美術学校鋳造科本科卒。
1926年工芸団体无型(むけい)を組織し、1935年実在工藝美術会結成に参加。
1933年、東京美術学校教授。
1950年、金沢美術工芸短期大学教授、日展運営会参事、日本芸術院会員。
1958年、日展理事、鋳金家協会会長を歴任する。
1964年、重要無形文化財(人間国宝)指定。67年勲三等旭日中綬章受章。

作風は伝統的な技法を駆使し、簡潔、清新な造形である。

高橋敬典

高橋敬典(たかはし よしのり、1920年 ~ 2009年6月23日)
山形県出身。

1940年、家業の高橋鋳造所(現山正鋳造株式会社)を継承。伝統工芸鋳金作家として作品を制作する。
1951年、日展初入選(以降7回入選)となる。
1960年、日本花器茶器展で読売新聞社賞受賞、65年中小企業展通産大臣賞受賞、
72年第12回日本伝統工芸新作展日本工芸会賞受賞、76年第23回日本伝統工芸展NHK会長賞受賞など数々の受賞、また皇室関係の献上品として釜を製作するなど山形県の文化向上にも貢献。
1991年、国指定重要無形文化財技術保有者の認定。翌92年に勲四等瑞宝章、
1996年に河北文化賞受賞などを受賞している。

茶釜、鉄瓶、銚子など茶の湯作品を60年以上に渡り制作し、
古釜の模倣から新しい斬新な造形や文様の作品を展開。

高橋介州

高橋介州(たかはし かいしゅう、1905年(明治38)~2004年(平成16))
石川県金沢市出身。東京美術学校卒

卒業後は海野清に師事。帝展、新文展などに出品、戦後より日展にも出品を重ねた。
1941年より石川県工芸指導所所長を務め行進の指導にも尽力、
1957年には加賀象嵌の技法により石川県指定無形文化財の認定を受ける。

作品は加賀象嵌の技法による装飾を用いた花瓶や香炉、茶道具などのほか帯止などの小作品にも存在感を示す。

印名は「高橋勇印」「介洲」など

高木治良兵衛

4代高木治良兵衛(たかぎ じろべい、1911年~1996年)
京都出身

京都の釜師3代高木治良兵衛の長男として生まれる。
高校を卒業後より父に師事して、釜製作に打ち込む傍らで、茶道を学ぶ。
彫金を中野美海、日本画を三宅鳳白に師事し、1951年より4代治良兵衛を襲名。

伝統的な打釜の技法を守った京釜の製作のほか、日本画の絵付を応用した波地紋釜などを
得意として個展を中心に作品を発表。

印名は「高木」「治良兵衛」など

関谷四郎

関谷四郎(せきや しろう、1907年(明治40)~1994年(平成6))
秋田県出身。

1928年、上京、帝室技芸員平田宗幸を師に持つ河内宗明に師事する。
鍛金技術を修行して日本鍛金協会展、商工省工芸展、文展へと出品を重ねる。
戦後からは、日展や新設された日本工芸会主宰の日本伝統工芸展の出品を中心に活躍。
特に日本伝統工芸展での活躍が目立ち、62年に初入選。
以降毎年出品して68年に同展最高賞となる日本工芸会総裁賞を受賞。
73年には同展の20周年記念特別賞を受賞した。
74年に紫綬褒章、77年に国指定重要無形文化財(人間国宝)の認定を受けている。
「打出」、「接合せ(はぎあわせ)」の技法に優れ、作品では大胆な造形と緻密な細工、
その両方の見事な融合、調和を生み幻想的な世界を表現した。

印名は「志郎」 など

鈴木長吉

鈴木長吉(すずき ちょうきち、1848年(嘉永元年)~1919年(大正8))
埼玉県出身。

出自、師系などは不明な点が残るが、1874年に設立された起立商工会の鋳造部監督に就任し、
輸出向け鋳造品に「嘉幸」銘の作品を多く残す。
自身も76年フィラデルフィア万博では「銅製鋳物香炉(スコットランド王室美術館蔵)」で優勝。
1885年、ミュルンベルグ万国博覧会では「青銅製鷲置物」で金牌を受けると共に絶賛を受ける。
この頃より鷲、鷹などの猛禽類の造形を追及するようになり1893年シカゴ万博に最高傑作の一つ
「鷲置物(重要文化財・東京国立博物館蔵)」、また、同万博に林忠正(パリ美術商・前起立商工会社勤務)
が考案し、鈴木長吉が製作指揮を執り鋳造、彫金、漆工、木工、染色など各分野の職人を集め
四年の製作期間を経て完成させた「十二の鷹(東京国立近代美術館蔵)」を出品し一層の名声と地位を確立。

96年に帝室技芸員を拝命、猛禽類以外にも1900年の「岩上双虎図置物(パリ万博出品作)」などを製作しているが、その表現力や迫力はその比ではない。

※前記のとおり長吉は起立商工会社勤務時代に「嘉幸」銘の作品は多く残しているが、
それもほとんどが海外輸出向けであったため現在日本では希少。

正阿弥勝義

正阿弥勝義(しょうあみ かつよし、1832年(天保3)~1908年(明治41))
美作国津山二階町の彫金師中川勝継の3男として生まれる。(岡山県津山市)

父に指導を受けた後に18歳の時に岡山藩お抱えの彫金師正阿弥家の養子となり正阿弥家9代目を襲名。
以後、実兄でもある中川一匠(江戸幕府及び宮中の御用職人)の指導を受ける。
藩の庇護を受けていた頃は刀装具などを手がけたが、明治に入ると廃刀令により苦難となるが、
刀に対しての彫金の技法を花瓶や香炉などの室内装飾品、彫像などの美術工芸品に施して
国内外の展覧会に積極的に出品して入選・受賞を重ねた。

作品では極限までに追求された写実的な表現で丹念に作り上げ、
またその作品の色数の多さ、鉄錆地の美しさは、陶磁の彫金師の中でも群を抜いている。

塚田秀鏡

塚田秀鏡(つかだ しゅうきょう、1848年(弘化5)~1915年(大正4))
江戸(東京都)出身。号は真雄斎。

明治時代を代表する彫金師。
彫金を加納夏雄、絵画を柴田是真に師事、両師の末字をとって真雄斎と号する。
1893年シカゴ万国博覧会、1900年パリ万国博覧会、04年セントルイス万国博覧会、
10年日英博覧会展にてそれぞれ受賞を重ね、13年に帝室技芸員を拝命。

確認できる作品では小品が多く、輸出と実用を兼ねた煙草入など当時の典型的な作品を残すが、
その技術は夏雄の特技片切彫と象嵌を踏襲し堅実なスタイルで高く評価をされた。
代表作に「鶺鴒躑蠋図煙草箱」など。

刻印は「秀鏡刀」「真雄」など

津田信夫

津田信夫(つだ しのぶ、1875年(明治8)~1946(昭和21))
千葉の元佐倉藩藩医の家に生まれる。号は大寿(大壽)

1895年、上京して東京美術学校にて鋳金を学ぶ。
卒業後は同校の助教授(後に教授)を勤める傍らで東京美術学校が制作依頼を受けていた、
公共施設の近代的な鋳金を手掛けていた。
1923年、イタリア、イギリス、ギリシャ、フランス、ドイツなどヨーロッパ各国に留学し西洋彫刻を習得、
帰国後は1925年にパリ万国博覧会にて日本代表審査員を務めるなど
金属工芸の近代化を推し進めた一人として高い評価を受けた。

サインは「大壽」など