大石良雄

大石 良雄(おおいし よしお/よしたか、万治2年(1659年)~元禄16年2月4日(1703年3月20日) 45才没)
元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした忠臣蔵で有名になった。
四十七士の長。内蔵助(内藏助)は通称である。

物静かで飾り気のない性格だが、内面は厚く人望があったといわれている。

井伊直弼

井伊直弼(いい なおすけ、1815年(文化12)~1860年(安政7))
近江国出身。本名は鉄之介のち鉄三郎のち直弼。

彦根藩11代藩主井伊直中の14男(庶子)として生まれる。
1846年、第12代藩主直亮の世子であった井伊直元が早死したため、直亮の養子となって世子となり
50年に直亮の没に伴い、13代藩主に就任。
1853年、ペリーが来航した際には、開国論を主張して、老中首座であった阿部正弘との対立。
57年には、徳川家定の継嗣問題で紀伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す
一橋派の徳川斉昭と対立をかさねる。
58年には江戸幕府大老に就任し、勅許なく日米修好通商条約に調印、慶福を将軍継嗣に決定。
その後、「安政の大獄」と称される攘夷派の弾圧を行ったが、1860年3月3日大獄に対する反発から
桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

淺井柳塘

淺井柳塘(あさい りゅうと、1842年(天保13)~1907年(明治40))
本名は永吉(幼名)のち龍。字は子祥

出身地には京都説と徳島説があるが不明。
はじめ木下逸雲、日高鉄翁に長崎南画の技法を学ぶ。
その後、谷口靄山、貫名海屋に師事、更に清の画家徐雨亭にも学び元明の古法を研鑽。
明治以降は1873年に京都博覧会の際席上揮毛作家に選出、1880年に京都府画学校創設に際して
教師として招かれるなど認められ、その後の展覧会出品でも33年第一回全国南画共進会では
二等銀牌を受賞。
晩年は京都を拠点に全国を巡遊、主に緻密描写の南画山水を得意したほか
書・詩文にも秀でた。明治40年11月23日65歳で没する。

印名は「浅龍之印」「櫻橘」「白山」「白山居士」「白山人」「子羊」「山客」「癯橘」(「痩橘」)など

藍澤南城

藍澤南城(あいざわ なんじょう、1792年(寛政4)~1860年(万延元年))
越後国三島郡(新潟県)出身。

三島片貝村の朝陽館教授藍澤北溟の長男として生まれる。
父の病没後、15歳の頃江戸に上がり、松下一斎に折衷学を師事。
帰郷後、文政3年に私塾三餘堂を創設、藩内外から700人を超す門下生を集めるに発展させ
越後でも有数の私塾と目されるに至る。
また、教育・研究の傍ら詩を好み、生涯に2000編もの詩作を残す。
南城没後は、養子の朴斎が三餘堂を受け継ぎ、明治時代には藍澤義塾と名を変えて
1897年まで多くの門弟を輩出した。

伊藤博文

伊藤博文(いとう ひろぶみ、1841年(天保12)~1909年(明治42))
長州(山口県出身)。幼名は林 利助(利介、利輔)のち俊輔(春輔、舜輔)

初代内閣総理大臣

長州藩の百姓の林家に生まれるが、後に父が伊藤家の養子となった為、伊藤姓となる。
利助(博文)は、吉田松陰の松下塾に通い、高杉晋作らと親交し、後に尊皇攘夷派として行動を共にする。
幕府の第二次長州征伐の際も、藩内の混乱を高杉などと治め保守派制圧に貢献。
維新後は、伊藤博文と改名し、英語が堪能なことから参与、外国事務局判事など
新政府の要職を歴任する。
1881年の政変で大隈重信が失脚すると、大日本国憲法の制定に貢献。
85年、内閣制度が創設され、初代内閣総理大臣に選出された。(その後5、7、10代にも就任)。

総理に就任して以来、国内の産業育成を最優先課題に上げ日韓併合問題には反対の姿勢をとっていたが
1909年に満州・朝鮮問題をロシア首相と会談する為、中国に渡航した際に
韓国民族主義運動家の安重根(アン・ジュングン)に暗殺された。

印名「伊藤家」 「伊藤博文之章」 「博文」 「博文私印」 「博文之章」 「春畝」 「越智博文」 「萬象皆師」
「滄浪閣主」 「滄浪閣主人」 「博文之印」 「一片秋心」 「幽願一致」 「芳楳書屋図書之記」 「行雲流水」 など

板垣退助

板垣退助(いたがき たいすけ、1837年(天保8)~1919年(大正8))
土佐国出身。自由党総理、第二次伊藤内閣内務大臣

土佐藩氏乾正成の長男として生まれる。
藩主山内容堂の側用役及び藩の要職を歴任。
幕末には討幕運動に参加して甲州勝沼、会津仙台など連戦。
明治維新後は1869年に木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信らと共に第一期参与に就任、
70年高知藩大参事、71年参事に就任。
この頃より、西郷らと共に征韓論を主張するようになるが、岩倉具視らに敗れる。
73年明治6年の政変にて下野。
74年には共に下野した後藤象二郎らと「民選議院設立建白書」を建議。
また、愛国公党や立志社を設立、自由民権運動の先頭に立って81年に自由党を結成、初代総理に就任。
帝国議会開設以後は、96年に第二次伊藤博文内閣の内務大臣として初入閣、
98年には対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、
第1次大隈内閣に内務大臣を務め大板内閣とも呼ばれた。

落款名は「退助」

明智光秀

明智光秀(あけち みつひで、1528年(享禄元)~1582年(天正10))
美濃国(岐阜県出身)、本名は明智光秀のち惟任日向守

美濃国明智庄に住んでいたために明智姓となる。
はじめ斉藤道三、足利家、朝倉家に仕えその後信長に仕える。
信長に仕えていたときには数々の戦功により、惟任の姓と日向守の役職を授けられ
以降、惟任日向守と改姓。
その後も信長の「馬揃え」などを指揮するなど、信長の信頼を厚く得ていたが、
1582年の「本能寺の変」にて信長に謀反を企てた。
しかし光秀の天下も本能寺の変から11日後に羽柴(豊臣)秀吉軍に敗れた。
現在においても光秀がなぜ謀反をしたのかは謎の部分が多い。
また、茶事、歌道を好み当時の名物茶碗を多く所持していたとされる。

会津八一

会津八一(あいづやいち、明治14年(1881)8月1日~昭和31年(1956)11月21日 75才没)
新潟県新潟市に生まれる。雅号は、秋艸道人、渾斎。

中学生のころより『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。
東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲らの講義を聴講。
1906年早稲田大学英文科卒業。

卒業後は、私立有恒学舎(現:新潟県立有恒高等学校)の教員となって新潟に戻る。
多くの俳句・俳論を残した。

1908年に最初の奈良旅行をおこなう。
奈良の仏教美術へ関心を持ち、俳句から短歌へと移るきっかけともなった。

1910年に坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の教員となり上京。
1925年には早稲田高等学院教授。
仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫、1933年)
で学位を受ける。

新潟市名誉市民 、文学博士、早稲田大名誉教授。

新潟市に會津八一記念館
東京都新宿区に早稲田大学會津八一記念博物館

生野祥雲斎

生野祥雲斎(いくの しょうんさい、1904年(明治37)~1974年(昭和49))
大分県出身。本名は秋平(あきへい)、号は夢雀斎楽雲、祥雲斎泰山。

1923年より大分の竹細工師佐藤竹邑斎に弟子入り。
早くからその技術の高さが認められて25年には独立する。
以降は県の竹細工工芸委託作家として、花籠など多くの作品を宮家などに献上。
1938年より大分県工業試験場別府工芸指導所に勤務して後進の指導にも尽力。

展覧会では40年の紀元2600年奉祝美術展にて「八稜櫛目編盛籃」が初入選。それを機に、
新文展や戦後は日展、日本伝統工芸展などに出品、入選を重ねる。
日展において56年に北斗賞、57年に特選・北斗賞を受賞。
1967年、竹芸技法により国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定、
74年(没後)に勲四等旭日小綬章を授与される。

初期の作品では精密で技巧的な職人技の光る作品を制作していたが、
展覧会出品頃~戦後以降より次第により高い芸術性と個性表現を追及し造形力に秀でた作品を制作。
また、後年には造形と共により使いやすさも意識した作品を残す。
透編組物、筒物などを得意とし、竹の清楚感と強靭さ生かした作品が特徴。

印名は、「祥雲斎」「此君亭」など

黒田辰秋

(くろだ たつあき、1904年(明治37)~1982年(昭和57))
京都の漆職人黒田亀吉の子として生まれる。

父の工房にて木・漆工芸の技法を習得。
しかし木工部門と漆塗部門の分業製作に疑問を抱き
木工による造形から漆による塗作業までを一貫した制作を開始。
柳宗悦などの民芸運動に共感を受けて、1929年に上賀茂民芸協団を組織。
1934年に初個展を開催。
日本民芸展、国画会展、日本伝統工芸展などで作品発表。
1970年、木工芸で重要無形文化財(人間国宝)の認定を受けている。

造形においては素材を一本一本吟味、刳抜きなどの技法を駆使してその木目など
自然の特徴を最大限に引き出した重厚感を示し、
さらに漆塗技法においては拭漆、螺鈿などを用いて装飾性を高めた優雅な作品も制作した。

鑑定人・鑑定機関

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