文政12年(1829年)~安政3年(1856年)
五代長左衛門の長男
28歳と短命であるが、注文を受けたもの、自身の作品と多様なものを残した
五代を受け継いだ穏やかな作風が特長
文政12年(1829年)~安政3年(1856年)
五代長左衛門の長男
28歳と短命であるが、注文を受けたもの、自身の作品と多様なものを残した
五代を受け継いだ穏やかな作風が特長
寛政11年(1799年)~安政3年(1856年)
四代長左衛門の子
五代長左衛門は大樋焼の中興の祖とされ、
幅広い作風、徳利、銘々皿、向付など注文に応じて幅広く制作した
宝暦8年(1858年)~天保10年(1839年)
歴代の中で初代に次ぐ名工と賞される
これまでの大樋焼の歴代が特長とした飴釉と共に、
他の色彩を用いた表現へ展開し、大樋焼の発展に貢献した
享保13年(1728年)~享和2年(1802年)
八代藩主前田十熙、十代藩主前田重教、
十一代藩主前田治脩の御用達窯として勤める
二代と同じく初代の伝統を受け継いだ古格な作風ではあるが、
釉薬や櫛目などに技法の模索、創意があるものがある
貞享3年(1686年)~延享4年(1747年)
初代長左衛門の子
二代長左衛門の作品として伝えられているものは非常に少ない
初代を受け継いだ飾り気のない素朴な作風を特徴とする
寛永8年(1631年) – 正徳2年(1712年)
大樋焼を創始した
屋号は荒屋、号は臘月庵
1666年、加賀藩主五代前田綱紀候の元に仕官していた裏千家四世仙叟宗室は、
楽家四代一入の弟子であった土師長左衛門を茶碗造り師として金沢に同行させ、
楽焼の技法を習得させた
この時より河北郡大樋村(現金沢市大樋町)に窯を築いたのが大樋焼の始まり
(1918年~1980年)
惺入の長男
1940年 東京芸術大学 彫刻科を卒業
後に第二次世界大戦に従軍、1945年 終戦後戦地より帰国し、
のち十四代吉左衞門を襲名
1978年 財団法人樂美術館を設立
歴代の作風とは一線を画す、
伝統様式に現代性を融合させたモダンな造形を特徴とする
(1887年~1944年)
弘入の長男
1919年、32歳で十三代吉左衞門を襲名
茶道研究誌「茶道せゝらぎ」を発刊など茶道文化啓蒙の為精力的に活動した
惺入の作風は生真面目な惺入の性格を映したような伝統的な樂茶碗のスタイルに沿ったもの
(1857年~1932年)
慶入の長男
1871年、十二代吉左衞門を襲名
1919年、剃髪隠居して弘入と号す
15歳で家督を継ぎ、幕末明治の激動の時代において父、慶入と共に奮闘の日々を重ねる
丸みをもった温和な造形、独特の装飾的な篦使いが特長
また赤樂茶碗の色調は変化に富み、軽やかな赤色
(1817年~1902年)
旦入の娘、妙國の婿養子
1845年、十一代吉左衞門を襲名
1871年、剃髪隠居して慶入と号す
文明開化の激動の時代の中、伝統文化の廃れゆく逆境の中で75年におよぶ長い作陶生活を送り、
茶碗以外にも茶器類また置物など歴代の中で最も多様な作域を示した