吉井淳二

(よしい じゅんじ、明治37年(1904)3月6日~平成16年(2004)11月23日 100才没)
鹿児島県曽於郡末吉町(現曽於市)出身。

1929年、東京美術大学洋画科卒業。
1940年、二科会会員就任。
1961年、二科会理事就任。
1976年、南日本美術展審査委員長就任。
1979年、日本芸術院会員就任。
1979年、社団法人二科会理事長就任。

作品のケレン味のない質実で情味ある画風は、みるものに安らぎと親近感を与え、
名実共にみごたえのあるもの。
残っている作品は少なく、中でも裸婦3点は貴重。

吉井淳二の作品は鹿児島県南さつま市にある「財団法人 吉井淳二美術館」にて見ることができる。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

山下清

(やました きよし、 大正11年(1922)3月10日~昭和46年(1971)7月12日 49才没)
東京府東京市浅草区田中町(現・東京都台東区日本堤)生まれ。本名は大橋清治。
3歳の頃に重い消化不良になり、一命は取りとめたものの、後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。

1928年、浅草の「石浜小学校」に入学。
1934年、千葉県の養護施設「八幡学園」に入園。
この学園での生活で「ちぎり紙細工」に遭遇。
1939年1月、大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催。
清の作品は梅原龍三郎・安井曽太郎らから賞賛された。

1940年、突然放浪の旅を始める。
驚異的な映像記憶力の持ち主で、「花火」「桜島」など行く先々の風景を、多くの貼絵に残している。

戦後は「日本のゴッホ」、「裸の大将」とよばれた。
1956年、東京大丸の「山下清展」をはじめ、全国巡回展が約130回開かれ、観客は500万人をこえた。
1961年、ヨーロッパ旅行に出発。各地の名所を絵に残した。

長野県茅野市に放浪美術館がある。

山口長男

(やまぐち たけお、明治35年(1902)11月23日~昭和58年(1983)4月27日 80才没)
韓国、ソウルに生まれ、19歳まで同地で過ごす。日本の抽象絵画の先駆者である。

1921年、上京し、本郷洋画研究所へ通う。岡田三郎助に師事。
1922年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。
1927年、同校卒業とともに渡仏。
ピカソ、ブラック、それに当時渡仏中だった佐伯祐三にも刺激を受ける。
また、彫刻家のオシップ・ザッキンのアトリエにも出入りし、立体的な造形をも習得に努めた。
1931年、帰国後、抽象画を描き二科展へ出品。
1938年、東郷青児、藤田嗣治を顧問に、吉原治良らと九室会を結成。
1954年、会員としてニューヨークでのアメリカ抽象美術展に出品。
第一回現代日本美術展で優秀賞を受賞。
第3回サンパウロ・ビエンナーレ、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ、
グッゲンハイム賞美術展など国外でも出品。

芸術選奨文部大臣賞受賞、武蔵野美術学園長。

典型的な作品は、黒系の地に黄土色または赤茶色系の大きな色面を配したもので、
いわゆる「ハード・エッジ」の抽象絵画とは違った温かみを感じる。

萬鉄五郎

(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、明治18年(1885)11月17日~昭和2年(1927)5月1日 41才没)
岩手県和賀郡東和町(現・花巻市)の商家(回送問屋「八丁」)に生まれる。

1906年、渡米。
1907年、東京美術学校西洋画科(現・東京藝術大学)に入学。
1912年、東京美術学校の卒業制作として、《裸体美人》を提出。
この頃の作品は後期印象派やフォーヴィスムの影響が強い。
同年、 岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加。
1917年、二科展にキュビスム的作品「もたれて立つ人」を出品。

日本洋画界に、フォーヴィスムを導入した先駆者としての功績は大きい。
晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。

岩手県花巻市に萬鉄五郎記念美術館がある。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

山本彪一

山本彪一 (やまもとひょういち、大正4年(1915)~平成11年(1999) 84才没)
栃木県に生まれる。

1937年、早稲田大学卒業後、猪熊弦一郎に師事する。 1943年、文展初入選。
1947年、光風会会員に推挙。
1977年、フランス政府よりパームコマンドール勲章授章。
パリを中心にした欧州の街や、バラの絵を多く制作。
光風会展、日展に多数出品。
光風会会員。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

山口薫

(やまぐち かおる、明治40年(1907)8月13日~昭和43年(1968)5月19日 60才没)
群馬県の榛名山麓の村、箕輪(現箕郷町)に、11人兄弟の末子として生まれる。

1930年、東京美術学校を卒業。その後、3年間フランスに留学。
1934年、帰国後は滞仏時代の友人である津田(大津田)正豊、津田正周、長谷川三郎、村井正誠、矢橋六郎、シャルルユーグとともに新時代洋画展を結成。
1937年、自由美術家協会を結成。
1951年、武蔵野美術大学講師に就任。
1960年、芸術選奨文部大臣賞受賞。
1964年、東京芸術大学教授に就任。

国内ばかりではなく、海外でも高い評価を受けている。

山本鼎

山本鼎(やまもと かなえ、1882年(明治15)~1946年(昭和21))
愛知県出身。東京美術学校卒

はじめ、浜松の木版工房にて版画技法を修得後、上京して東京美術学校にて学ぶ。
卒業後は、石井柏亭らと共に、美術同人誌「方寸」を発行して、創作版画を掲載。
1912年よりフランスに留学して、美術学校エコール・ド・ボザールにて版画の研究を進める。
帰国後の17年には、再興日本美術院同人として迎えられる。

創作版画と平行して、児童画、農民美術にも力をいれて、翌18年には日本創作版画協会、
19年には日本農民美術研究所の設立に、中心的立場となって参加。多方面に活躍と功績を残す。
24年には春陽会の創立メンバーとなり、以降は同会の出品や個展を中心に作品を制作。

風景、人物、そのほかにも麒麟麦酒のラベルデザインなど、幅広いモチーフと自由な作域で、
本格的な洋画作品から、コミカルな筆致の創作版画まで製作した。

サインは「鼎」

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

安井曾太郎

(やすい そうたろう、 明治21年(1888)5月17日~昭和30年(1955)12月14日 67才没)
京都で木綿問屋を営む商人の家に生まれる。

1903年、聖護院洋画研究所(のち関西美術院)に入所し、
浅井忠らに師事。同時期、梅原龍三郎も学んでいた。
1907年、先輩画家の津田青楓とともに渡欧、アカデミー・ジュリアンに入学。
ジャン=ポール・ローランスに師事する。
1915年、第2回二科展に滞欧作44点を出品し、二科会会員にも推挙される。
1956年、安井記念賞が創設される。

帝国美術院会員、東京美術学校教授、文化勲章受賞、日本美術評論家連盟初代会長。

梅原龍三郎とともに第二次世界大戦前後を通じて昭和期を代表する洋画家と評されている。

鑑定人・鑑定機関

日動画廊内各鑑定委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
Tel:03-3571-2553
https://www.nichido-garo.co.jp/appraisal.html

村上隆

(むらかみ たかし、Takashi Murakami、昭和37年(1962)2月1日~)
東京都板橋区出身。現代美術家で日本におけるポップアートの代表者。

1986年、東京芸術大学美術学部日本画科卒業。
1988年、東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。
1991年、個展「TAKASHI,TAMIYA」で現代美術アーチストとしてデビュー。
1993年、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。
1994年、ニューヨークにロックフェラー財団の奨学金で留学。制作活動に専念。
N.Y.スタジオを設立し、フリーペーパーの表紙で作品を次々と発表する。
2001年、アメリカロサンゼルスで、展覧会『SUPER FLAT』展が開催され全米で話題となる。
2003年春、ニューヨークのオークション会社・サザビーズにて
等身大フィギュア『Miss Ko2』が50万ドル(約5,800万円)で落札され、話題となった。
これは当時の日本現代美術作品の最高額である。
同年、ルイ・ヴィトンの依頼で鞄をデザインする。
2005年、ニューヨークで個展「リトルボーイ展」を開催。 (最優秀テーマ展覧会賞)
2007年、アメリカ・ロサンゼルス現代美術館(MOCA)で、
大規模な展覧会「村上隆回顧展(C)MURAKAMI」が催される。
2016年、『第66回芸術選奨』文部科学大臣賞(美術部門)を受賞した。

松本竣介

松本竣介(まつもと しゅんすけ、1912年(大正元)~1948年(昭和23))
東京都出身。太平洋洋画研究所卒

出身は東京だが、幼少期は岩手県にて過ごす。
13歳の頃、聴力に障害を持ち難聴となり、そのことがきっかけで画家になることを決意。
上京後、太平洋洋画研究所に学ぶ。
その後は二科展に出品、前衛的な作品を展開し、二科会の前衛的グループ九室会に入会。

太平洋戦争中は、作品に制限がされ、戦争絵画に類した作品しか制作が許されなかったため、
靉光らと共に新人画会を結成。
戦後からは自由美術家協会展に出品するが、36歳と言う若さで没した。

独自の前衛画風を確立しており、青系と茶色系の背景に黒と白の線で描かれた
風景や人物が、背景の色に縛られることなく存在し、この不規則な描法は松本独自のものであり
具象と象徴が混在した画風とも言える。
1940年に制作された代表作品「都会」では、後の戦争時代への傾斜・不安・悲愴さが
よく表現されている。

サインは「matumoto.s.」など