森本草介

(もりもと そうすけ、昭和12年(1937)8月14日~平成27年(2015)10月1日)
画家・森本仁平の長男として朝鮮全羅北道に生まれる。

1957年、阿佐ヶ谷美術研究所に通う。
1958年、東京芸術大学油絵科入学。
1961年、安宅賞受賞。
1962年、東京芸術大学卒業、専攻科に進む。
1963年、同科を修了し、芸大助手となる。国画会第37回展(東京美術館)に「聚」初出品、初入選。
1966年、国画賞受賞、助手を辞める。
1969年、十騎会の結成に加わる。
1995年、森本草介画集が刊行される。

棟方志功

(むなかた しこう、明治36年(1903)9月5日~昭和50年(1975)9月13日 72才没)
青森県青森市の刀鍛冶職人の三男として生まれる。
彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。

1928年、平塚運一を訪れ、版画を学び始める。
第8回日本創作版画協会展、第6回春陽会展に版画が入選、
第9回帝展に帝展に「雑園」(油彩画)を出品、初入選。
この頃から版画へと興味を移し、本格的な木版画制作を始めた。

1931年、油絵と版画による最初の個展を開催。
1932年、日本版画協会会員となる。
1937年、国画会同人となる。版画に宗教的境地が現れてくる。
1956年、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に『湧然する女者達々』などを出品。
日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。
1969年、青森市から名誉市民賞。翌年には文化勲章を受章する。従三位。
1971年、日展常任理事となる。
1975年、東京にて永眠。
青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた“静眠碑”と名付けられた墓がある。

富山県南砺市に棟方志功記念館愛染苑、青森県青森市に棟方志功記念館がある。

宮永岳彦

(みやなが たけひこ、大正8年(1919)2月20日~昭和62年(1987)4月19日 68才没)
静岡県磐田郡(現・磐田市)生まれ。
油絵をはじめ、小田急電鉄や全日本空輸のポスター、童画、週刊漫画TIMESなどの表紙画、挿絵、水墨画などの作品を残した。

1931年、名古屋市立工芸学校に入学。
1936年、松坂屋百貨店名古屋本店入社。
1942年、第29回二科展「いもん」で初入選。
1946年、復員。松坂屋百貨店銀座店宣伝部に勤務。
1947年、二紀会創立展に出品。
1972年、二紀会理事に就任。
1974年、「皇太子・同妃両殿下御肖像画」制作。秦野市功労者表彰を受賞。
1978年、「平和憲法公布記念式典図」制作
1979年、第1回東郷青児美術館大賞受賞。

日本芸術院賞受賞、紺綬褒章受章、勲三等瑞宝章受章。

三岸節子

(みぎし せつこ、明治38年(1905)1月3日~平成11年(1999)4月18日 94才没)
愛知県尾西市の富裕な地主の四女として生まれる。夫は三岸好太郎。

岡田三郎助に師事。
1924年、三岸好太郎と結婚。
1936年、長谷川春子ら女性画家7人で七彩会を結成。
1946年、女流画家協会を創立。
1968年からは南仏に居を移して、作品の制作をする。1991年に帰国。

代表作に『くちなし』『飛ぶ鳥』等。

文化功労者。尾西市の名誉市民。
1998年、三岸節子記念美術館を開館する。

鑑定人・鑑定機関

日動画廊内各鑑定委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
Tel:03-3571-2553
https://www.nichido-garo.co.jp/appraisal.html

森田茂

(もりた しげる、 明治 40 年 (1907) -平成 21 年 (2009))
真壁郡下館町〔筑西市〕生まれ。

1925年、茨城県師範学校本科第2部(現在の茨城大学)を卒業。
真壁郡大田尋常高等小学校(現在の筑西市立大田小学校)の教員となり、
子供たちに絵画を教える。
1926年、第3回白牙会展に『静物』が入選。
1928年、大田尋常高等小学校を退職。画家を志し上京する。
1931年、同じ茨城県出身の熊岡美彦が開設した熊岡洋画研究所に入所。
1934年、第15回帝国美術院展覧会に初入選。
1966年、第9回新日展で文部大臣賞受賞。

日本芸術院賞受賞、文化功労者、文化勲章受章、勲三等瑞宝章。

東光会会長、日展顧問、日本芸術院会員、筑西市名誉市民、茨城県名誉県民、豊島区名誉区民。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

向井潤吉

向井潤吉 (むかいじゅんきち、明治34年(1901)11月30日~平成7年(1995)11月14日 93才没)
京都市に生まれる。

1916年、関西美術院で人物のデッサン、油彩画の基礎を学ぶ。
1927年、渡欧。パリのグラン・ショーミエールに学ぶ。
1928年、サロン・ドートンヌに出品。
1930年、帰国。第17回二科会展に滞欧作を特別出品し樗牛賞を受賞。
1937年、陸軍報道班員として、戦争記録画の制作に従事する。
1945年、行動美術協会を創立。ライフワークとなる民家シリーズの制作が始まる。
1974年、画業60年記念、向井潤吉環流展を開催。
1982年、世田谷区名誉区民となる。
1993年、向井潤吉アトリエ館開館。

三岸好太郎

(みぎし こうたろう、明治36年(1903)4月18日~昭和9年(1934)7月1日 31才没)
北海道札幌市出身。

1923年、第1回春陽展に『レモンを持つ少女』が入選。
1924年、第2回春陽展に『兄及び彼の長女』などを出品、春陽会賞を主席で受賞。
同年、吉田節子と結婚。

初めアンリ・ルソー風の素朴な画風から出発し、エキゾティックでロマンティシズム溢れる画風に転じた。

1930年、福沢一郎らと独立美術協会の結成に参加。
独立展で『面の男』など道化をモチーフにした作品を数多く発表。
1934年、連作「蝶と貝殻」シリーズを発表する。
1967年、北海道立美術館(現、北海道立三岸好太郎美術館)開館。

森田恒友

森田恒友 (もりたつねとも、明治14年(1881)4月9日~昭和8年(1933)4月8日 52才没)
埼玉県幡羅郡久保島村(熊谷市)に生まれる。

1901年、画家を志して上京し、 小山正太郎の不同舎に入る。また、中村不折に師事する。
1902年、東京美術学校西洋画選科に入学、青木繁の強い影響を受ける。
同校を首席で卒業後、文展に初入選。
同年山本鼎・石井柏亭らと雑誌『方寸』を創刊、挿絵画家としても活躍。
1914年、渡仏してセザンヌの故郷のエックス・ヴァン・プロヴァンスに滞在し、
セザンヌの画風に強い感銘を受ける。
1922年、小杉放菴、倉田白羊、梅原龍三郎らとともに春陽会創設に参加。
1929年、帝国美術学校洋画科主任教授。

院展時代から日本画的傾向を示し、田園水郷風景画に独自の静かで謙虚な水墨画を描きました。

正宗得三郎

正宗得三郎(まさむね とくさぶろう、1883年(明治16)~1962年(昭和37))

はじめ、日本画家を志して、1902年に上京、寺崎広業に学んだ。
その後、洋画に転向して、東京美術学校西洋画科に学ぶ。
1914~16年、及び、21~24年の二度にわたり、フランスに留学。
この間にアンリ・マティスの指導を受けている。
また在国中の1915年、第2回二科会展から会員として同会に出品、16年の第3回展、
24年の第11回展にそれぞれの滞欧作を出品している。

戦後は二科会の再興には加わらず、熊谷守一、黒田重太郎、田村孝之介ら9名で二紀会を結成。
以後、同会の中心的な画家として出品を重ねた。
また、晩年には富岡鉄斎に傾倒を深め鉄斎研究に没頭。

サインは「T.Masamune」 など

牧野邦夫

牧野邦夫(まきの くにお、1925年(大正14)~1986年(昭和61))
東京都出身。東京美術学校油画科卒

1948年美術学校を卒業後、画壇には属せずに、そのまま画を描くことだけに専念。
1959年に初個展を開催。
以来、数年に一度の個展のみの製作発表で、個展と共に居住地を点々とする清貧な生活を送る
(例外的に62年・65年安井賞候補新人展入選、71年第14回安井賞展入選がある)。

光の画家と称される世界的画家、レンブラントを愛し、彼の作品に影響を受けた画風を展開。
1966年にはレンブラントの母国オランダを中心に、欧州を外遊し、更なる研究を進める。

作品はレンブラント同様に、光と影のバランスを生涯かけて追求し、
全体的に背徳的なマチエールの中に、一光を入れて光、闇両極ともに
無くてはならない存在として表現、作品のモチーフとしては人物群像が主。

近年、回顧展が各地で企画され、没後再評価され始めた不世出の画家といわれる。

サインは「牧野」など