村山槐多

(むらやま かいた、明治29年(1896)9月15日~大正8年(1919)2月20日 22才没)
神奈川県横浜市で生まれる。

1914年、京都府立第一中学校を卒業し上京、日本美術院の研究生となる。
また、高村光太郎の工房にも出入りする。
1915年、第2回日本美術院展覧会で「カンナと少女」が院賞受賞。
1917年、第4回日本美術院展覧会で「乞食と女」が院賞受賞。日本美術院院友に推される。
以後、日本美術院試作展覧会で奨励賞受賞、美術院賞乙賞受賞を受賞。

若年で病没した画家としては比較的多くの作品を残している。
原色を多用した、けばけばしいとさえ言える筆致を特徴とする。

宮本三郎

(みやもと さぶろう、明治38年(1905)5月23日~昭和49年(1974)10月13日 69才没)
石川県能美郡末佐美村(現・小松市)生まれ。

1922年、上京し川端画学校洋画部で藤島武二に師事。
1927年、「白き壺の花」で二科展に初入選。
関西美術院で黒田重太郎の指導を受ける。
1938年 渡欧。
1940年、陸軍省嘱託として小磯良平等と共に中国へ従軍。
1942年、「山下、パーシバル両司令官会見図」で帝国美術院賞受賞。
1943年、「海軍落下傘部隊メナド奇襲」で朝日賞受賞。
1945年、(財)石川県美術文化協会が設立され、評議員・企画委員に就任。
1946年、金沢美術工芸専門学校講師に就任。

多摩美術名誉大学教授、東京教育大学非常勤講師、日本美術家連盟理事長。
日本芸術院会員、二紀会理事長、国立西洋美術館評議会評議員。

石川県に小松市立宮本三郎美術館
東京都世田谷には世田谷美術館分館宮本三郎記念美術館がある。

鑑定人・鑑定機関

日動画廊内各鑑定委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
Tel:03-3571-2553
https://www.nichido-garo.co.jp/appraisal.html

南大路一

南大路一(みなみおうじ はじめ、1911年(明治44)~1994年(平成6))
東京都出身。

1929年18歳の頃、画技指導を受けていた長谷川昇の勧めにより、春陽会洋画研究所に入所。
同所に36年まで在籍し、木村荘八、中川一政、硲伊之助らに学ぶ。
春陽会展の出品を中心に制作を行う。
また47年、アバンギャルド芸術クラブの創立に参加するなど、独自の画家活動も行う。

60年代からは現代美術展優秀賞、春陽会展中川一政賞、国際形象展愛知県美術館賞と受賞。
84年、89年と二度の紺綬褒章を受章している。

サインは「oji」など

丸木俊

丸木俊(まるき とし、1912年(大正11)~2000年(平成12))
北海道出身。本名は赤松俊子(旧姓)。女子美術専門学校卒

女子美術専門学校にて洋画を学ぶ。
卒業後は、小学校教諭を務めながら作品を制作し、二科展に出品。
またモスクワ、ミクロネシアなどに長期外遊し、スケッチ製作など研究に励む。
1941年に丸木位里と結婚。この頃より、夫と共に行動をするようになり、日本画に転向。
41年より46年まで美術文化協会展に出品。
戦後より、47年に日本美術会、前衛美術会と双方の結成に参加する。
また、女流画家協会展に48年第2会展より出品を続ける。

展覧会出品のほか、絵本の著作を多数出版し、71年に国際童画ビエンナーレにて
ゴールデンアップル賞を受賞。
当初の洋画作品についてはあまり知られていないが、戦後より夫と共に原爆シリーズを
長年にわたり製作し、日本アンデバンタン展、日本秀作美術展、現代日本美術展などの
国内公募展のほか、西ヨーロッパ、中国、アフリカ、アメリカ(各州)での巡回展を開催。
夫妻で人類の平和を訴求、1953年に国際平和文化賞金賞、95年エイボン女性大賞、
96年には夫位里と共に朝日賞を受賞。

作品は原爆シリーズのほか沖縄問題、南京大虐殺、水俣病などをモチーフに制作。
絵本でも「ヒロシマのピカ」などが有名。
尚、結婚後もしばらくは旧姓の赤松俊子として作品を制作しており、1956年より丸木俊としている。

印名は「俊印」など

前田寛治

(まえだ かんじ、明治29年(1896)10月1日~昭和5年(1930)4月16日 33才没)
鳥取県東伯郡北条町(現北栄町)国坂の豪農の次男に生まれる。

1916年、東京美術学校西洋画科に入学。
在学中は藤島武二に師事。また、精神的には内村鑑三に傾倒した。
1921年、二科展に初入選。

翌年渡仏し、アカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールに学ぶ。
新古典主義、写実主義を研究し、アングル、クールベに魅かれる。
また、マネ、セザンヌにも刺激を受けた。
唯物史観の影響を受け、社会的な主題を扱った作品も描く。

1925年、帰国。第6回帝展では〈J・C嬢〉で特選となる。
1926年、里見勝蔵らと一九三〇年協会を結成する。
1928年、渡仏期の成果を基に、前田写実研究所を開設。後進の指導にあたる。
一方で造型理論の研究をすすめ、古典的な構図とフォーヴィスム的な筆致を持つ作品を制作する。
1929年、第10回帝展で、帝国美術院賞を受賞。

人物写実画の名手として知られ、33歳という若さで早逝し10年に満たない短い活動期間であったが、
彼の古典的構図でのフォーヴィスム的筆致が「前寛ばり」という流行語を生むなど
当時の芸術家に多大な影響を与えた。

藤島武二

(ふじしまたけじ、慶応3年(1867)~昭和18年(1943)3月19日 75才没)
薩摩藩士の家に生まれた。

1885年、川端玉章に入門。
1890年、曾山幸彦、松岡寿につき、山本芳翠の生巧館で洋画の指導を受ける。
1891年、明治美術会の会員になる。
1896年、1歳年上の黒田清輝の推薦で東京美術学校(現・東京藝術大学)助教授に推される。、
以後、没するまで同校で後進の指導にあたった。
1905年、文部省から4年間の留学を命じられ、渡欧。フランス、イタリアで学んだ。
帰国後、東京美術学校(現・東京藝術大学)教授に就任。
1937年、最初の文化勲章受章者の一人となる。

帝展審査員、 帝国美術院会員、帝室技芸員。

鑑定人・鑑定機関

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〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
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原田直次郎

原田直次郎(はらだ なおじろう、1863年(文久3)~1899年(明治32))
東京都出身、東京外国語学校卒。

江戸にて岡山藩士の子として生まれた。
画家を志し、東京外国語学校ついで1884年に渡独。
ミュンヘンアカデミーにて、西洋画の画技を習得。

帰国後は、内国勧業博覧会などに出品、また自宅に洋画塾を開校する。
西洋画を教えたが、99年に36歳で早世、現存作品は非常に少ない。

モデルを用いず制作しており、作品は氏の想像から生まれているが、
極めてリアルな写実性が特徴で、人物画、宗教画、歴史画などに秀作が残っている。

サインは「Naojiro.」など

藤井勉

藤井勉 (ふじいつとむ、昭和23年(1948)~)
秋田県生まれ。

1971年、岩手大学教育学部特設美術科卒業。
シェル美術賞展佳作賞、昭和会展優秀賞、安井賞展佳作賞受賞。
1991年、リトグラフ手彩色30葉を制作。

FIAC’83(パリグランパレ)個展や読売新聞社主催の藤井勉作品展、
小泉智英、上村淳之、森田りえ子、小松崎邦雄と二人展など開催。

日本秀作美術展、具像現代展、明日への具像展、具像ビエンナーレ展、五都展などに出品。
現在は無所属。

繊細で可憐な少女像は画家自身の愛娘への愛情があふれている。

原精一

(はら せいいち、1906-1986)
神奈川県生まれ。

1924年、川端画学校に学ぶ。萬鐵五郎に師事。鳥海青児に兄事。
1936年、春陽会賞受賞。
1938年、戦地スケッチの作品で佐分賞受賞。
1940年、岡田賞受賞。春陽会会員。
1947年、読売美術賞受賞。
1948年、国画会会員。

度々応召し戦時下で寸暇を惜しんで描いた数多くのデッサンは、
画家としての執念を感じさせるものでした。
度重なる召集でビルマ・インパール作戦にも従軍、奇跡的に助かり抑留生活後復員しました。
戦後は国画会に出品し、優れた作品を数多く残し、生き生きとした人間表現を追及しました。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

福沢一郎

(ふくざわ いちろう、1988年(明治31)~1994年(平成6))
群馬県出身。帝国大学文学部中退

大学在学中に、彫刻家の朝倉文夫の知遇を得て、彫刻を学ぶ。
1922年、第4回帝展に、彫刻作品「酔漢」が初入選。
その後、24年に渡欧し、フォービズム表現やシャガールの作品などから大きな影響を受け、
西洋画に転向する。
また研究を進めていくうちに、マックス・エルンストらシュルレアリスム派
(超現実前衛的絵画)に傾倒し、31年に帰国。
同年、第1回独立美術協会展に、滞欧作37点を出品。
日本で初めて、シュルレアリスムを紹介し、大きな反響を得た。
その後、39年まで独立展に参加。同年に美術文化協会を結成。57年まで同会で活躍
(一度49年に脱会、54年再入会)する。
46年には日本美術会の発起人、日本アバンギャルド美術家クラブに参加、
そのほか53年に、中南米を取材したのを機に、ニューヨーク・メキシコ、ヨーロッパなど
世界各地を巡遊し、様々なモチーフで作品を制作。
日本のシュルレアリスム派第一人者として、最期まで製作を続けた。
世界をめぐり、多くの人種、風俗、信仰などと触れ合ううちに、人間性を大きな題材として
黒人シリーズや旧約聖書、日本の古代神話などのシリーズに挑戦。
57年芸術選奨文部大臣賞、58年毎日美術賞、78年文化功労者表彰に続き91年に文化勲章を受章。

サイン、印 名は「Fukuz.」「一郎」など

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
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