鈴木信太郎

(すずき しんたろう、明治28年(1895)8月16日~平成1年(1989)5月13日 94才没)
東京生まれ。

白馬会洋画研究所で黒田清輝に師事する。
1955年、一陽会を結成し中心的存在として活躍する。
明朗な風景画を得意とした。

多摩美術大学教授、日本芸術院賞受賞、日本芸術院会員、文化功労者。

鑑定人・鑑定機関

日動画廊内各鑑定委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
Tel:03-3571-2553
https://www.nichido-garo.co.jp/appraisal.html

須田剋太

須田 剋太(すだ こくた、明治39年(1906)5月1日~平成2年(1990)7月14日 84才没)
埼玉県北足立郡吹上町(現:鴻巣市)で、須田代五郎の三男として生まれる。本名 勝三郎。

寺内萬治郎がその才能に注目し、光風会展、官展への出品を勧める。
1936年、文展で初入選。
1939年、文展で「読書する男」が特選。
1949年、抽象絵画の旗手長谷川三郎と出会い、国画会会員になり、抽象画の道へ進む。

西宮市民文化賞、吹上町文化功労賞、大阪芸術賞。

須田国太郎

須田 国太郎(すだ くにたろう、明治24年(1891)~昭和36年(1961) 70才没)
京都市出身。

少年期から文芸趣味に秀で、第三高校以来没年まで謡曲を趣味とする。
京都帝大で美学美術史を専攻、写実主義を卒論とし、大学院で絵画の技法論を学ぶ。
1919年、渡欧。マドリードを中心に各地を旅し、
マニエリスム絵画を主とした模写10余点と多数の風景画を描く。
1934年、独立美術協会会員となり、渡欧で得た成果を糧に独自の重厚な作風を確立。
特に黒色の奥深さが印象的です。

日本芸術院会員、京都市立美術大学学長代理、毎日美術賞受賞。

進藤蕃

進藤蕃 (しんどうばん、昭和7年(1933) ~平成10年(1998) 66才没)
東京都出身。

1956年、東京芸術大学美術学部油画科小磯教室を首席卒業、大橋賞受賞。
1957年、グループ黒土会結成に参加。
1960年、フランス政府給費留学生として渡仏。
エコール・デ・ボザール(仏国立美術学校)でモーリス・ブリアンションに師事。
サロン・ナショナル・デ・ボザール展、サロン・アンデパンダン展などに出品。
1967年、中根寛、小松崎邦雄らと濤々会を結成。
1974年、黎の会結成。
1976年、三井物産大手町新社屋の貴賓室・会長室・社長室のフレスコ天井画完成。
1977年、具象現代展を結成し、同人となる。
1982年、国際形象展の同人となる
1983年、個展開催(パリ・ダランパレ美術館、同84年)

地主悌助

地主悌助(じぬし ていすけ、1889年(明治22)~1975年 (昭和50))
山形県出身。

1912年、上京して、文展にて坂本繁二郎の画を見て感動し、翌年には弟子入りを果たす。
しかし、それまでに教員資格を取得しており、師範学校や中学校の教諭。
また山形県の美術団体白甕社の会長等を勤める傍らの制作活動であった。
その後、体調崩したため、他の仕事からは退く。
1954年(42歳)から画業に専念するようになる。

白甕社会長。
主な受賞は日本芸術大賞など

島田章三

島田章三(しまだ しょうぞう、1933年(昭和8)~(現在))
神奈川県出身。東京芸術大学卒

東京芸大在学中より国画会に出品を続ける。
1961年には、国画会会員に推挙される。
同会や安井賞候補新人展(安井展)、個展を開催するなど活躍。
67年には第11回安井展にて安井賞を受賞。

1968年~69年の一年間にわたり渡欧し、パリを中心に制作活動に励む。
この渡欧でキュビスムの画家たちの仕事に接して、画面をつくり上げることの大切さを
再確認するなど、現在の氏の画風の根本的な基となった。
帰国後から現在においても、各種展覧会や個展にて、精力的に活動を続けるなど
現代洋画界の重鎮的作家。

サインは「Shozo」など

芝田米三

芝田米三(しばた よねぞう、大正15年(1926)~平成18年(2006)5月15日 79才没)
京都生まれ。

1939年、京都商業学校入学、今井憲一に師事し油絵を学ぶ。
戦時下入営、戦後、独立美術京都研究所で須田国太郎に師事する。
雑誌 『婦人公論』 表紙画を4年間描き続ける。
日伯美術連盟評議員としてブラジルとの美術交流に務める。

独立展独立賞、サロン・ド・プランタン賞受賞。安井賞展安井賞受賞、安井賞選考委員、日伯美術連盟評議員。
ブラジル・サンパウロ州議会より騎士賞授与、京都府芸術会館理事、京都府文化功労賞。
独立美術協会功労賞、京都市文化功労賞。
日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員、勲三等瑞宝章受章。

里見勝蔵

里見勝蔵(さとみ かつぞう、1895年(明治28)~1981年(昭和56))
京都府出身。関西美術院・東京美術学校卒

関西美術学院~東京美術学校と画技を学び、在学中の1917年に二科展に初入選。
学校卒業後は、21年~25年まで渡仏。
当時の巨匠ヴラマンクに師事し、フォービズムの画風を修得。
帰国後は、25年第12回二科展に滞仏作を特別出品し、樗牛賞を受賞、
また27年には二科賞を受賞、30年に一時的に二科会会員となる。
独立美術協会の創立に参加、創立会員となる(37年脱会)。
以降、戦時中をはさみ、しばらくは無所属作家として制作活動を行ってきたが、
54年に国画会から会員として迎えられ、以降は同会中心作家として
また日本洋画壇の代表的作家として活躍する。

画風は、ヴラマンクの影響が現れ構図、色彩、立体感など細かな描写を無視し
荒々しいタッチと大胆な色彩で、人間の根源的な感情を表現する。
日本にフォービズム(野生派)画風を伝えた画家の一人とされる。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

坂本繁二郎

坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 明治15年(1882)3月2日~昭和44年(1969)7月14日 87才没)
福岡県久留米市に生まれる。同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁がいる。

10歳になると、地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学んだ。
梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされる。

1907年、『北茂安村』が第1回文展に入選している。
1912年、第6回文展に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価したことで知られている。
1914年、二科会創立に参加。
1921年、渡仏し、アカデミー・コラロッシに在籍し、シャルル・ゲランに師事。
『帽子を持てる女』は優しくしかも強さをも秘めた存在感を持つ女性を描き、
本場の画家たちから高く評価された。

文化勲章を受章、 朝日賞受賞。

斎藤与里

斎藤与里(さいとう より、1885年(明治18)~1959年(昭和34))
埼玉県出身。本名は与里治。京都聖護院洋画研究所

1905年、鹿子木孟郎の京都室町画塾に続き、浅井忠の京都聖護院洋画研究所に洋画の技法を学ぶ。
翌年、鹿子木孟郎とともに渡欧、パリのアカデミージュリアンにてローランスに師事。
また、ゴッホ、セザンヌ、マチスなど後期印象派やフォービズム表現に影響を受け、1908年に帰国。
12年には、岸田劉生、高村光太郎らと共に、フュウザン会を結成(翌年解散)。
15年には、文展初入選となり、翌16年には特選を受賞。
1924年、牧野虎雄、熊岡美彦らと共に、槐樹会を創立。
更に同年には、大阪美術学校の創立に参加し、洋画部教授として更新の指導に当たる。

帝展を中心に出品を重ねていたが、31年の槐樹会解散を受けて翌年東光会を新たに主宰する。
また、この頃より雑誌「美術新報」の主幹としても活躍を示した。

晩年、1958年に第1回埼玉文化賞、59年加須市名誉市民第1号として表彰される。
日本において初めて、後期印象派やフォービズム的な表現を紹介し、明治後期~大正期にかけての
日本洋画壇に大きな影響をもたらした画家の一人。

サインは「YORI」など