斎藤三郎

斎藤三郎(さいとう さぶろう、1916-1996)
埼玉県生まれ。

1937年、内務省に勤務するかたわら、東京物理学校(現東京理科大学)に学ぶ。
1946年、第31回二科展に初入選(以後、毎年出品)。
1948年、第33回二科展にて特待を受賞。
1949年、サロン・ド・プランタンに出品。第3回美術団体連合展に出品。
1950年、第35回二科展にて二科賞を受賞。
1951年、第2回秀作美術展(朝日新聞社主催)に出品。
1954年、二科会会員推挙。
1961年、第46回二科展にてパリ賞を受賞。
1962年、素描展(新宿画廊)。フランス、スペインに取材旅行。滞欧作品展。
1967年、斎藤三郎個展。サロン・ドートンヌ(グラン・パレ)に出品。
フランス、イタリア、スペイン、モロッコなどに取材旅行。二科会評議員推挙 。

1968年、各団体選抜百人展に出品し互選賞を受賞。
1969年、日本デンマーク交換展(デンマーク文化庁主催、コペンハーゲン市・コンストフォールニンゲンハウス)、第54回二科展にて青児賞を受賞。
1970年、 二科展(ポルトガル政府主催、リスボン・フォス宮殿)サロン・ドートンヌに出品。渡欧。
1971年、斎藤三郎個展(日本橋三越)二科展(レバノン政府主催、ベイルート国立美術館)に出品。
1972年、渡欧。第9回太陽展に出品(以後、毎年)。
第57回二科展に出品、内閣総理大臣賞を受賞。斎藤三郎個展。
埼玉県文化賞受賞。二科会委員となる、またこの頃からスペインの人物を描き始める。
1973年、渡欧、スペインに取材旅行。斎藤三郎個展。
1975年、渡欧、おもにスペイン、イタリア、ベルギーに滞在。
二科展(エジプト政府主催、カイロ国立ファイン・アート・ギャラリー)に出品。
1976年、斎藤三郎個展(日本橋三越)渡欧、スペインに滞在。
二科展(アルジェリア政府主催、アルジェ・キャトルコロヌ美術館)に出品。
第7回日動展に出品(以後、毎年)。
1977年、スペインに取材旅行。
1978年、斎藤三郎個展。スペインに取材旅行。
1982年、第4回日本秀作美術展(読売新聞社主催、日本橋高島屋)。他、個展・団体展など多数。

佐伯祐三

(さえき ゆうぞう、明治31年(1898)4月28日~昭和3年(1928)8月16日 30才没)
大阪市生まれ。

1917年、東京の小石川にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。
1918年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。
1920年、東京府下落合にアトリエを新築して住む。
1924年、パリ郊外のクラマールに住み、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールの自由科に通う。
1927年、パリのブールヴァール・デュ・モンパルナス162番の新築のアトリエに引っ越す。
サロン・ドートンヌ25年記念展で「新聞屋」と「広告のある家」が入選。

佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごし、フランスで客死した。
25歳で渡仏し、ヴラマンクとの出会いにより画風は大きく変貌します。
作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

斉藤真一

(さいとう しんいち、1922年7月6日 – 1994年9月18日)
岡山県に生まれる。

1948年、東京美術学校(現・東京芸大)卒業。
1949年、第4回日展に初入選。

1960~1970年代 津軽、北陸を旅して、盲目の旅芸人「瞽女」(ごぜ)に出会う。その後の大きなテーマの一つとなった《瞽女》シリーズを手がける。

1971年 、「みさを 女の哀しみ―越後 女日記より」が第14回安井賞展佳作入賞。
1975年、 第11回フランス賞展2席入賞。
1982年、紺綬章授章受章。

1985年、明治期に浅草、吉原に生きた遊女の実態を検証した《明治吉原細見記》を描き、絵画シリーズとともに、『絵草子 吉原炎上』(1985年・文芸春秋刊)を出版、映画や舞台で広く上演される。

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

斎藤清

斎藤清(さいとう きよし、1907年(明治40)~1997年(平成9))
福島県出身。

はじめ、同郷の画家成田玉泉にデッサンを学ぶ。
1930年に上京、商店の広告を制作する傍らで画法を修める。
32年に白日展にて、油絵作品が初入選。
36年日本版画協会に初入選したのを機に版画制作へと転向する。
同展のほか造形版画協会展、二科展にも出品、44年日本版画協会会員、49年に国画会会員に就任。

海外でも、48年アメリカ巡回・サロン・ド・プランタン展にて第一等賞を受賞して以来、
51年サンパウロビエンナーレ展、57年リュビリアナ国際版画ビエンナーレ展、
アジア・アフリカ国際美術展にて受賞するなど、国内外で高い評価を得る。個展多数開催。

伝統的な木版技術に、現代的な感覚を取り入れて、故郷の会津の風景などをモチーフにした
温かみのある作品を制作。

サインは「Kiyoshi Saito」 「清」 など

六谷梅軒

六谷梅軒(ろくたに ばいけん、1907年(明治40)~1973年(昭和48))
三重県出身

伊勢型紙彫師六谷芳蔵を父に持ち、小学校卒業より父に指導を受け、錐彫技法を学ぶ。
更に1933年には京都に移り兄の下で修行。また、鮫小紋、通し小紋の研究を進め、
39年に独立、以降、極鮫小紋の研究を長年にわたり没頭。
1955年に伊勢型紙技術で国指定重要無形文化財(人間国宝)に認定、72年には鈴鹿市文化功労者の
表彰を得ている。
江戸時代より続く同地の伝統工芸の伊勢型紙(錐彫)において鮫小紋、通し小紋といった
シンプルな文様を追求、シンプルさゆえに斑(まだら)が目立ちやすく、精密さが求められが
氏の作品では寸文の狂いのない卓越した技術と、それを支える精神性の高さがみられ
一文様を完成させるのに20~一ヶ月を有した作品も少なくない。

印名は「六谷梅軒」など

山崎朝雲

(やまざき ちょううん、慶応3年(1867)~昭和29年(1954)6月4日 87才没)
筑前国博多櫛田前町(現・福岡県福岡市博多区冷泉町)生まれ。別号は羯摩。

1884年仏師高田又四郎に師事。
1894年第四回内国勧業博覧会に出品、宮内省買い上げ。
1895年上京し、高村光雲に師事。1900年日本美術協会幹事。
1927年帝国美術院会員、1934年帝室技芸員、1937年帝国芸術院会員。
木彫による写実的表現に新生面を開いた。1952年文化功労者。
代表作は「大葉子」。

門下に松尾朝春・佐藤朝山がいる。

舟越保武

舟越保武(ふなこし やすたけ、1912年(大正元)~2002年(平成14))
岩手県出身。東京美術学校彫刻科卒

東京芸術大学名誉教授、芸術選奨文部大臣賞、高村光太郎賞など

中学の頃に兄に買ってもらった「ロダンの言葉」(高村光太郎:訳)をよんで彫刻に興味を持つ。
1934年、東京美術学校彫刻科に入学。
在学中は国画会に出品、卒業後は佐藤忠良らと新制作派協会彫刻部の創立に参加。
この頃から石彫作品を手掛けるようになる。
1950年には、父の影響や長男の病死などから、キリスト教に洗礼を受ける。
アンジェリコと洗礼名を受ける。
以降、キリスト教を題材とした作品を多く手掛ける。
62年、「長崎26殉教者記念像」で第5回高村光太郎賞を受賞。また同年突然性の脳梗塞に倒れ入院。
回復後は右手の自由を奪われたが、左手による制作を開始。
新たな船越芸術を展開し、78年には芸術選奨文部大臣賞を受賞。
現代彫刻界において具象彫刻の第一人者とされる。

印名、刻印は「舟」など

平櫛田中

平櫛田中(ひらくし又はひらぐし でんちゅう、明治5年(1872年2月23日)~昭和54年(1979)12月30日 107才没)
岡山県後月郡西江原村(現・井原市西江原町)の田中家に生まれる。
1893年(明治26年)に、大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし木彫の修行を行う。

1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員。
1944年(昭和19年)、東京藝術大学の教授に招聘され、教壇に立つ。岡倉天心に師事した。
1962年(昭和37年)、文化勲章受章。
1965年(昭和40年)、東京藝大名誉教授。

東京都小平市の自宅で逝去。享年108才。
広辞苑に載っている実在の人物の中でもっとも長生きをした人物である。

岡山県井原市には井原市立田中美術館がある。

中村晋也

中村晋也(なかむら しんや、1926年(昭和元年)~(現在))
三重県出身。

1950年、第6回日展にて初入選。以降、日展に出品を続ける。
一方で、51年より鹿児島大学講師(60年助教授・72年教授・92年名誉教授)に就任する。
日展では、67年第11回新日展で特選、翌年も改組第1回日展で特選、
69年菊花賞、81年会員賞、84年文部大臣賞を受賞、
88年には前年の改組第19回日展出品作「朝の祈り」で日本芸術院賞に選出される。
そのほか白日展、日本彫刻会展、文化庁現代美術選抜展などにも出品を重ねる。

66~67年、69年~70年と二度に渡りフランス留学、彫刻家アペルフェノザに師事。
上記以外にも88年西日本文化賞、99年勲三等旭日中綬章、2002年紺綬褒章、同年文化功労者表彰、
2007年文化勲章に選ばれるなど現代彫刻家として高い評価を受けている。

ブロンズ彫刻の裸婦を中心に制作し、緻密な写実により肉体的な美を表現する。
その根底にある人間の持つ内なる美意識までを表出し、詩情豊な作域に仕上げている。

サインは「Shinya」など

中原悌二郎

(なかはら ていじろう、明治21年(1888)10月4日~大正10年(1921)1月7日 32才没)
北海道釧路市生まれ。大正期日本を代表する彫刻家の一人。

17歳の時、画家を志して上京。荻原守衛の感化によって彫刻に転じ、太平洋画会研究所彫塑部で新海竹太郎に師事。1910年第4回文展に「老人の首」が初入選。

第3回院展に発表した「石井氏の像」で樗牛賞を受けて院友となる。以後も同展に「行乞老人像」「若きカフカス人」「憩える女」などの作品を次々と発表。 32歳の若さで没した。

晩年の芥川龍之介が、 講演先で「若きカフカス人」見て、 「この中原氏のブロンズの「若者」に惚れる者はないか、 この若者はまだ生きているぞ」 と発言したのは有名な話だ

北海道旭川市には中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館がある。