沼田一雅

沼田一雅【ぬまた いちが 1874年(明治7)~ 1954年(昭和29)】
福井県出身 本名は沼田勇次郎、号は一雅

初め彫刻の竹内久一に師事し、彫刻家として生計を立てていたが、
明治36年、大正14年の二度に渡りフランス留学をし、絵画、彫刻、陶芸などを勉学
帰国後は、官展を中心に陶彫の作品を出品し陶芸界に新たなジャンルをもたらす
作品のほとんどが、関東大震災時に焼失されており、現存が少なく希少価値は高い

昭和6年、フランス政府よりシュバリーエ・ド・ドルドール・ナショナル・レジェンドングール勲章授与
昭和29年、日本芸術院賞恩賜賞

内藤伸

内藤伸(ないとう しん、1882年(明治15)~1967年(昭和42))
島根県出身。東京美術学校卒。

平櫛田中らと共に高村光雲門下として活躍。
大正、昭和の彫刻界をリードしてきた一人。

仏像彫刻や写実的な表現を得意とし、代表作に「子安観音 立像」「大楠公像」などがある。

印名は「伸」など。帝国美術院会員。

高村光太郎

(たかむら こうたろう、明治16年(1883)3月13日~昭和31年(1956)4月2日 73才没)
東京府下谷区(現・東京都台東区)で彫刻家の高村光雲の長男として生まれる。

東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科に入学。
与謝野鉄幹の新詩社に入り、『明星』に留学に出る。
1914年に長沼智恵子と結婚。1938年智恵子と死別。1941年に詩集『智恵子抄』を出版。
第2回読売文学賞を受賞。

『智恵子抄』の詩集が有名のため詩人として認識されることも多い。

岩手県花巻市に高村光太郎記念館がある。

高村光雲

高村 光雲(たかむら こううん、嘉永5年2月18日(1852年3月8日)~昭和9年(1934)10月10日 83才没)。
江戸下谷に町人兼吉の子として生まれる。 幼名は光蔵。
後に師匠東雲の姉エツの養子となり高村姓となる。
高村光太郎、高村豊周は息子。写真家の高村規は孫。

明治23年(1890年)から東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授、帝室技芸員に任ぜられる。
明治26年(1893年)に『老猿』をシカゴ万博に出品。『山霊訶護』をパリ万博に出品。
大正15年(1926年)東京美術学校名誉教授。

光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海など近代日本彫刻を代表する彫刻家がいる。

澤田政廣

澤田 政廣(さわだ せいこう、明治27年(1894)~昭和63年(1988)5月1日 94才没)。
静岡県熱海市生まれ。本名は寅吉。

山本瑞雲に師事。1918年東京美術学校彫刻科別科卒業後、31年帝展審査員、41年三木宗策と正統木彫会を結成、47年日展審査員、50年日展運営会参事、51年芸術選奨文部大臣賞、53年日本芸術院賞受賞、58年日展評議員、62年日本芸術院会員、日展理事、65年日展常務理事、日本彫塑会会長、70年同理事長、71年日展顧問、73年文化功労者、1979年文化勲章受章、日本彫塑会名誉会長。

代表作は、『吉祥天』『大聖不動明王』。仏像彫刻を行なう。

佐藤朝山

佐藤朝山(さとう ちょうざん、1888年(明治21)~1863年(昭和38))
福島県相馬郡出身。本名は清蔵、別号は阿吽洞玄々

祖父、父と宮彫師で、幼い頃よりノミ彫刻に親しんでいたが
職人ではなく芸術家を志して山崎朝雲に師事。
1914年、再興第一回院展に「シャクンタラ姫」を出品して同年同人に推挙。
その後、1922年に日本美術院の留学生として渡仏、ヨーロッパ彫刻を学ぶ。
帰国後は再び院展・そのほか帝展などで活躍。
戦時中は郷里に疎開するが、その戦災で、作品のほとんどが焼失または四散。
戦後は京都妙心寺内に移り制作を再開。

伝統的な技法と西洋の流線彫刻技法を交えて、人物の表情に生命力を与え、独自の世界を確立。
代表作に、制作10年を費やした三越本店「天女像」など。
また、師との制作意識の対立により号を自ら阿吽洞玄々と改号。

落款名は「朝山」。印名は「清蔵印」など

佐藤忠良

佐藤忠良(さとう ちゅうりょう、1912年(明治45)~(現在))
宮城県出身。東京美術学校彫刻科卒

在学中の1938年に国画会展にて奨励賞を受賞する。
美校卒業後は、新制作派協会彫刻部の創立に会員として参加。
1944年に、召集され兵役となりシベリア抑留。48年に復員。
新制作派協会展と現代日本美術展を中心に作品を発表する。
60年に第3回高村光雲賞、71年第2回現代国際彫刻展招待出品で北海道立近代美術館賞、
74年第15回毎日芸術賞、同年文部大臣賞芸術選奨、75年中原悌二郎賞、89年朝日賞など受賞。
また、81年国立ロダン美術館や94年三重県立美術館、2000年高島屋(東京日本橋・大阪なんば)など
国内外での有名ギャラリー、百貨店、美術館で個展を開催。

主にブロンズ女人像や裸婦、人物(頭部)の彫刻に優れ緻密で具象的なフォルムを展開し、
近代彫刻家を代表するひとり。

刻印は「CHURYO」など

清水九兵衛

清水九兵衛(きよみず きゅうべい、1922年(大正11)~2006年(平成18))
愛知県出身。本名は裕詞。号は九兵衛、7代 六兵衛。東京芸術大学鋳金科卒

在学中より義父6代 清水六兵衛の後継者として陶芸を手掛る。
卒業後は、日展で北斗賞、特選などを受賞し、審査員なども務めた。
しかし、次第に陶芸から立体造形の世界へ傾倒し、彫刻作品や空間アートなど
前衛的な作品を手掛けるようになる。
彫刻家に転身後は、各彫刻展覧会などで多数の受賞歴を持つ。
代表的なものに、76年毎日芸術賞、77年日本芸術大賞、98年中原悌二郎賞などがある。
1981年、6代六兵衛の死去(80年に没)に伴い7代 清水六兵衛を襲名。
以降、茶陶を中心とした茶碗、香炉、花瓶など用の器を製作。
一方では、陶器の世界にも斬新な美意識をつねにもち、オブジェ陶などもよく制作し、
歴代六兵衛とは違った作陶を展開した。
2000年に子息の清水柾博氏に8代 清水六兵衛を譲り、近年は再び彫刻作品を制作。
2006年7月21日永眠、享年84歳。

印名、陶印は六角印「清」 「裕詞」 「K.KIYOMIZU」 など

木内克

木内克(きのうち よし、明治25年(1892)~昭和52年(1977)茨城県水戸市出まれ。

1914年(大正3年)朝倉文夫の彫塑塾に入門。 1921年(大正10年)渡英。半年間ロンドンに滞在し、その後パリにわたる。そこでブールデルの指導を受ける。 二科展などに多数出品し、テラコッタの作品を多く残した。

代表作には『エーゲ海に捧ぐ』、『女の顔』がある。

古賀忠雄

古賀忠雄(こが ただお)
佐賀県出身。東京美術学校彫塑科卒

在学中の1929年第10回帝展にて初入選となる。以降、帝展、新文展にて入選を重ねる。
39年第3回新文展にて特選を受賞、42年には前年の第5回新文展出品作「建つ大東亜」にて
帝国芸術院賞を受賞、戦後は、日展を中心に出品を重ねるほか、当時の彫刻界発展に尽力を尽くす。

1963年に初渡欧して西洋彫刻を研究。
人物肖像、裸婦、動物などを中心にブロンズ作品、石膏作品のほか、陶器なども幅広く製作。

印名は「忠」など