北村西望

北村 西望(きたむら せいぼう、明治17年(1884)12月16日~昭和62年(1987)3月4日 104才没)
長崎県南高来郡南有馬村生まれ。 本名は、北村西望(きたむら にしも)。

1903年(明治36年) 京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)入学。1907年(明治40年) 京都市立美術工芸学校卒業後、上京し東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学。
日本を代表する美術家の1人であり、特に代表作である大作「長崎平和祈念像」は有名。

1915年(大正4年)初期の代表作「怒涛」制作。文展で二等賞に入賞し認められる。
1953年(昭和28年) 東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設。
1955年(昭和30年) 5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像完成、長崎市に納品。
文化勲章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章。

故郷の長崎県島原市の島原城内には北村西望記念館がある。

石川光明

石川光明(いしかわ みつあき、1852年(嘉永5)~1913年(大正2))
江戸出身。帝室技芸員

幕府御用を務める宮彫師の家に生まれる。
父に木彫りの技法を学ぶ傍らで、絵画を狩野素川に師事。
1866年より、菊川正光に牙角彫刻を学び、明治維新以降は、木彫及び牙彫作家として独立。

1881年、第二回内国勧業博覧会では「牙彫魚籃観音」が妙技二等賞、「嵌入衝立」が二等賞。
89年、パリ万国博覧会で「嵌入芦乗達磨」が銀賞、
90年、第三回内国勧業博覧会に「木彫鷲額面」と「牙彫老夫置物」が共に
妙技二等賞を受賞するなど活躍を示す。
同年に帝室技芸員を拝命、また、同年より東京美術学校に勤務、91年には楠公銅像木型製作に従業。
他、93年シカゴ・コロンブス世界博覧会で「木彫額面観音」が優等賞、
94年第四回内国勧業博覧会で「木彫軍鶏」が妙技二等賞、
1900年にパリ万国博覧会にて「牙彫古代鷹狩置物」が金賞を受賞するなど活躍を示した。

写実的な彫刻を得意として、特に猿の牙彫に優れ、高村光雲の代表作「老猿」は
光明の影響によると所がかなり大きいといわれる。

雨宮敬子

雨宮敬子(あめのみや けいこ、1931年(昭和6)~(現在))
東京都出身。日本大学芸術学部美術科卒

彫刻家雨宮治郎の長女。
1956年、第12回日展に初入選。以降、日展を中心に作品を発表する。
58年、第1回新日展にて特選となり、以降も入選・受賞を重ねる。
85年、改組第17回展で内閣総理大臣賞を受賞。
その間、82年に第10回長野市野外彫刻賞、83年第14回中原悌二郎賞を受賞、
更に72年より新樹会展に招待出品(77年まで)、80年第1回現代女流美術展より同展連続出品、
90年には前年の日展出品作「想秋」にて日本芸術院賞を受賞、94年日本芸術院会員に就任するなど
現代女流彫刻家の第一人者として活躍を示す。

端整で自然な形態を追求し、女性像、特に裸婦像を一貫して作り続け、
外観的な女性美を表現すると共に、内面的、精神的な美を表出させることにより
清楚な作品に仕上げている。

印名は「敬子」「Keiko」など

石井鶴三

石井鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20)~1973年(昭和48))
東京都出身。東京美術学校彫刻科卒

祖父に南画家、鈴木鵞湖、父に石井鼎湖、兄に石井柏亭を持つ。
絵画を小山正太郎、彫刻を加藤景雲にそれぞれ学ぶ。
東京美術学校卒業後、1911年第5回文展にて初入選及び褒状を受賞。
14年より再興日本美術院展に出品、16年に同人に推挙。
以降、長年院展彫刻部の中心的な作家として出品を重ねるほか、
水彩画、版画、油彩画と絵画方面にも幅広く活動し、各画会の会員に就任。

母校東京芸術大学の教授としても後進の育成にも尽力、1950年に日本芸術院会員にも就任した。

印名、サインは「TU」 「Tur」 「鶴」 「寉」 など

朝倉文夫

朝倉文夫(あさくら ふみお、1883年(明治16)~1964年(昭和39))
大分県竹田出身。本名は(旧姓)渡辺。東京美術学校彫刻科卒

東京美術学校卒業後、1908年第二回文展にて二等賞を受賞。
以来、第8回展まで連続受賞を重ねる。
1921年より、東京美術学校教授。また24年より、帝国美術院会員に就任。
27年には、朝倉塾を主宰。
44年には、帝室技芸員を拝命、戦後48年に、文化勲章を受章。

精密な写実彫刻を基本に裸婦像、肖像などに秀作を残す。
技術の高さから東洋のロダンとも称され、そのほか猫をこよなく愛してモチーフに用いた。
尚、現代彫刻家の朝倉響子は次女。

印名は「文夫作」など

圓鍔勝三

圓鍔勝三(えんつば かつぞう、1906年(明治39)~2003年(平成15))
広島県出身。本名は勝二

1930年、第11回帝展にて木彫作品「星陽」で初入選。
以降、帝展及び、新文展に出品を重ねる。39年第3回新文展にて特選を受賞。
戦後は日展を中心に出品。47年第3回、50年第6回日展にて特選を受賞、
57年第13回展では川合玉堂賞を受賞、81年には日展顧問にも就任。

日展での発表のほか、68年の三越個展以来、名古屋、大阪、岡山などで度々個展を開催。
また、昭和会審査員・受賞者選定委員、孝太郎賞選考委員、日本彫刻会理事、
多摩美術大学名誉教授なども務めるなど、戦後の日本彫刻界を代表する作家としての活躍を見せる。
76年に勲三等瑞宝章を受章、88年には文化勲章を受章、89年広島県名誉県民、
93年川崎市名誉市民などにも選出された。
戦後の作品はブロンズ作品が中心。

彫印は「鍔」など

雨宮治郎

雨宮治郎(あめのみや じろう、1889年(明治22)~1970年(昭和45))
茨城県出身。東京美術学校彫刻科本科卒、同校研究科修了。

在学中の1918年、第12回文展にて初入選となる。以降、帝展、新文展、日展に出品。
29年第10回帝展及び、30年第11回帝展にて連続特選を受賞、31年第12回展で審査員に就任。

戦後、日展では50年に参事、58年評議員、64年理事と務め顧問に就任。
そのほか、51~56年には東京大学教授、66年より日本彫塑会会長に就任。
また、この間57年には、前年の日展出品作「健人」により日本芸術院賞を受賞し、
64年に日本芸術院会員に就任。

リアリズムを追求した写実的な作風で、特に男性像をモチーフとした作品を多く制作。
代表作に「無人の境を行く(29回帝展特選)」、「槍投(30回帝展特選)」、「黒田清隆像」、
「板谷波山先生像」など
現代彫刻家、雨宮敬子は長女。

浅川伯教

浅川伯教(あさかわ のりたか、1884年(明治17)~1964年(昭和39))
山梨県北巨摩郡甲村出身。

淺川兄弟の兄。弟は匠。
1927年に教員として朝鮮に渡り、小学校で教育を教える傍ら、兼ねてより興味を持っていた
李朝陶器や朝鮮民族の研究をはじめる。その古窯調査は約680箇所にも及び、
朝鮮陶器を世界に紹介した。
30年間の朝鮮生活を終え、帰国後、愛媛県砥部に窯を置き、作陶に勤めた。

当時の朝鮮巨匠陶芸家からの信頼も厚く、朝鮮・李朝古陶磁研究の第一人者とされ
帰国後は、朝鮮民族美術館を設立。
また、柳宗悦とも親交があり、伯教の持ち帰った古李朝の壺をみて
民芸運動のきっかけとなったといわれている。
現在、浅川の眼にかなった陶磁は、日本民藝館及び一部東洋陶磁美術館に収蔵されている。

印名は「伯」など

十二世 小堀正明 宗慶

十二世 小堀正明 宗慶(こぼり そうけい、1923年(大正12)~(現在))
東京都出身。本名は正明。東京美術学校卒

11代小堀宗明の長男として生まれる。幼少時より父の薫陶を受ける。
東京美術学校では、日本画を専攻し、茶を中心とした美術全般に研鑽を深めるが、
在学中に学徒出陣となり、その後もシベリア抑留などの経験を持つ。

1949年に復員となり翌年には遠州公嫡子大膳宗慶公の号を継承。
以降、遠州流の茶道と茶文化の普及に尽力を示し、62年に正式に12代小堀宗慶をを襲名。
92年に都知事表彰、93年に勲四等旭日賞受賞などを受けている。

落款名は「宗慶」など

八世 小堀正優 宗中

八世 小堀正優 宗中(1786年(天明6)~1867年(慶応3))
本名は梅之助のち政優、字は大膳、号は和翁、大建庵

茶匠小堀家6代目の小堀政寿の子として生まれる。
その後、1788年に小室の屋敷を没収され、以降、京都孤篷庵に住す。
1828年に幕府から幕臣としての沙汰を受け、小堀家8世として小堀本家を再興するなど
当家中興の祖とされる。

印名は「宗中」など