初代 長次郎(ちょうじろう、(不明)~1589年(天正17))
初代 楽吉左衛門
茶の湯の大成者千利休に見出され楽茶碗の制作を始める。
作風はその造詣に千利休のワビ・サビの思想を表現、重厚な黒釉を用いた
存在感のある作品であった。
「宗入文書」によれば初代長次郎~2代常慶の間、宗味、宗慶など複数の人物が
存在したようで。その詳細は未だはっきりとしない。
その頃の作を「長次郎焼」と総称する。
初代 長次郎(ちょうじろう、(不明)~1589年(天正17))
初代 楽吉左衛門
茶の湯の大成者千利休に見出され楽茶碗の制作を始める。
作風はその造詣に千利休のワビ・サビの思想を表現、重厚な黒釉を用いた
存在感のある作品であった。
「宗入文書」によれば初代長次郎~2代常慶の間、宗味、宗慶など複数の人物が
存在したようで。その詳細は未だはっきりとしない。
その頃の作を「長次郎焼」と総称する。
竹細工・柄杓師 黒田正玄(くろだ しょうげん(初代)、1578年(天正6)~1653年(承応2))
越前国(福井県)出身。一阿弥、小堀遠州、江月宗玩に師事。
京都にて小堀遠州に茶の湯を師事。
また、秀吉から天下一の称号を賜った、名工柄杓師一阿弥の下で柄杓製作を開始する。
さらに大徳寺156世の江月宗玩に参禅、剃髪して正玄と名乗り、柄杓師黒田家を創始。
柄杓のほかにも竹細工を得意として、徳川家や陸奥白川藩に仕えた。
現在は13代。
塗師 中村宗哲(なかむら そうてつ(初代)、1617年(元和3)~1695年(元禄8))
京都出身。本名は公弼
京都武者小路に居を構えていた茶人であったが、
隣人の武者小路千家初代千宗守(初めは塗師であった)の娘と結婚してその塗技術を受け継ぎ、
塗師を家業とする。
以降、宗守をはじめ、江岑宗左(表千家初代宗匠)、仙叟宗室(裏千家初代宗匠)の三千家や
京都の豪商灰屋紹益、呉服商藤村庸軒といった当時京でも有数の茶人の好み物を良く作った。
作品は全体的に見ると薄作な物が多く、代表作に「凡鳥棗」「望月棗」「朱茶桶」などが残る。
現在は13代。
印名は「宗哲」など。
金物師 中川浄益(なかがわ じょえき、1593年(文禄2)~1670年(寛文10))
京都出身。本名は重高のち紹益のち淨益。
初代紹益の長男として生まれる。
家職の銅器茶道具制作に従業し、紹益の名前を受け継ぎ、千宗旦の好み物を多く制作。
晩年に、当時の文化人の一人佐野紹益と同じ名前で紛らわしいとされて、
4代千宗左(江岑宗左)の申し付けにより、淨益と改名し、以降代々それを受け継いでいる。
釜師 大西清右衛門(おおにし せいえもん(13代)、1866年(慶応2)~1943年(昭和18))
京都出身。本名は清三郎(幼名)のち清右衛門、諱は孝信
12代大西浄典の子として生まれた。
父が享年29歳という早世であった為、祖父の浄寿に学ぶ。
しかしその祖父も10歳の頃に没となり、その後見を玉村徳兵衛にされて家業を守る。
円能斎好や惺斎の好み物を多数制作、また、晩年には歴代の釜の鑑定の極め書も多く残す。
指物師 駒沢利斎(こまざわ りさい(14代)、1909年(明治42)~1977年(昭和52))
京都市出身。本名は浪江
13代利斎の妻で、13代利斎との間に1941年に長女、44年に待望の長男を授かるも
長男が翌年の45年に死亡。
その為に13代利斎の没後、家を絶やすわけにはいかないとの思いで決心して
自ら14代利斎を襲名、以来、77年に没するまで家を守る。
また、その間、次代15代利斎を襲名させるべく指物技術を伝授していた長女千代子にも
1961年に20歳の若さで先立たれる不幸に見舞われている。
駒沢家は歴代においてその当主或いは親族が短命で一代が長く続かない事が多々あり、
常に後継者問題に悩まされる事が特筆すべき点で、
現在は、14代の甥に当たる吉田一三氏が後見人を勤めているが
15代を襲名しておらず、長らく空席が続いている状態である。
今後は、14代の吉田氏の息子である吉田博三氏が後を嗣ぐべく修行中である。
印名は小判印「り」(「リ」)
十二代 聴松宗守 愈好斎(ゆうこさい、1889年(明治22)~1953年(昭和28))
武者小路千家12世家元 聴松宗守
10代久田宗悦の次男として生またが、11代一叟宗守に嗣子がなかった為、
その養子として武者小路家に入った。
養父、一叟を早くに亡くした為に表千家の碌々斎宗左、惺斎宗左などに茶事を師事。
東京帝国大学を卒業後に、宗守を襲名して、武者小路千家を再興。
伝統を重んじながらも新しい時代の作法、点前、形式などの研究に励み、
著書としても「茶道妙境」、「茶道風与思記」など多数出版。
また、月刊誌「武者の小路」の発行など近代武者小路流茶道の確立に功績を示した。
九代 仁翁宗守 好々斎(こうこうさい、1795年(寛政7)~1835(天保6))
武者小路千家9世家元 仁翁宗守
裏千家9世宗室(不見斎)の三男として生まれる。
兄には裏千家10世宗室(認徳斉)がおり、幼い頃から茶事を学ぶ。
8世宗守(一啜斎)の養子に迎えられて家督を襲名。
高松藩松平家、近衛家などに仕えたが、41歳で没。
六代 真伯宗守 静々斎(せいせいさい、1693年(元禄6)~1745年(延享2))
武者小路千家6世家元 真伯宗守
5世文叔宗守の子として生まれる。
15歳のときに父と死別、以降家督を襲名して高松松平候への出仕。
よく家を守ったが、6世宗守の活躍した時代が江戸中期に差し掛かり、
明国から渡来した明朝体の文字など新しい芸術文化の移り変わりの時期と重なり、
歴代中最も雅趣に秀でた人とされている。
書のほかに手造りの茶碗、茶杓の優品を多数後世に残している。
代々武者小路家に伝わる名物茶碗「銘、木守」を写した茶碗が代表作として知られている。
十四代 宗守 不徹斎(ふてつさい、1945年(昭和20)~(現在))
武者小路千家14世家元 不徹斎宗守
13世宗守(有隣斎)の長男として生まれる。
慶応義塾大学を卒業後、家業に従事して伝統の作法、点前など茶の湯を父の下で修行。
1949年に嗣号である宗屋を襲名する。
89年には父の隠居に伴い、14世宗守と号、不徹斎を襲名。(現当代家元)