五代 文叔宗守 許由斎(きょうゆうさい、1658年(万治元)~1708年(宝永5))
武者小路千家5世家元 文叔宗守
4世一翁宗守の子として生まれたが、
一翁宗守が66歳の晩年期の子ということもあり、18歳の頃に父と死別。
以降、家を良く守り、高松松平候への出仕、そのほかにも近衛家にもよく仕えたとされる。
茶道具の極め書きを多数残している為、すぐれた鑑定眼を持っていたとされている。
五代 文叔宗守 許由斎(きょうゆうさい、1658年(万治元)~1708年(宝永5))
武者小路千家5世家元 文叔宗守
4世一翁宗守の子として生まれたが、
一翁宗守が66歳の晩年期の子ということもあり、18歳の頃に父と死別。
以降、家を良く守り、高松松平候への出仕、そのほかにも近衛家にもよく仕えたとされる。
茶道具の極め書きを多数残している為、すぐれた鑑定眼を持っていたとされている。
十三代 徳翁宗守 有隣斎(ゆうりんさい、1913年(大正2)~1999年(平成11))
武者小路千家13世家元 徳翁宗守
京都帝国大学を卒業後、1941年に12世宗守(愈好斎)の娘千澄子と結婚。
婿養子となり、53年に13世宗守を襲名。
64年には千茶道文化学院を創立、65年には財団法人官休庵を設立する。
現代茶道文化の隆盛に尽力を示したのち、89年に隠居して家督を長男に譲り、宗安と号した。
十代 全道宗守 以心斎(いしんさい、1830年(天保元)~1891年(明治24))
武者小路千家10世家元 全道宗守
7世久田宗也(皓々斎)の三男として生まれる。
兄には表千家10世宗左(吸江斎宗左)がおり、幼い頃より茶法を学ぶ。
9代宗守(好々斎)が早死した為にその養子・嗣子として武者小路千家に入る。
家業である松平家への出仕などに従事するが、病気の為に失明、早くから隠居して宗安と号した。
全道隠居後は、義母(9代宗守の妻)が一時宗栄と号して家業を守った。
四代 一翁宗守 似休斎(いきゅうさい、1593年(文禄2)~1675年(延宝3))
武者小路千家4世家元 一翁宗守
本名は甚右衛門のち宗守
千家3世千宗旦の次男に生まれる。
弟に表千家創始の江岑宗左、裏千家創始の仙叟宗室がいる。
当初、父宗旦の意もあり、京都の塗師吉文字屋与三右衛門の養子に出され、
その家業を継承していたが、その後、兄弟の勧めもあり千家に復帰。
塗師としての家業は隣人の中村八兵衛を娘婿にして業を継がせている。
1650年には大徳寺玉舟和尚に参禅して号、一翁を拝領。
また、高松藩主松平家の茶頭として出仕、退官後は京都に戻り武者小路に官休庵を起こしている。
十五代 汎叟宗室 鵬雲斎(ほううんさい、1923年(大正12)~(現在))
本名は政興(幼名)、宗室、玄室
裏千家15世家元 汎叟宗室
14世淡々斎宗室の長男として生まれる。
同志社法学部経済学科、ハワイ大学を修学後、
1949年に大徳寺瑞巌和尚について参禅、またこの間に徴兵も経験している。
その後、1964年に父の没に伴い、15世裏千家家元宗室を襲名。
主な業績としては襲名前~隠居後の現在まで、日本はもとより海外での茶道隆盛に力を注ぎ、
アメリカ、ヨーロッパ、東南アジア、ニュージーランド、中国、ソ連(ロシア)など
世界各国を渡来行脚し、日本を代表する文化人として、1989年に文化功労者顕彰を受賞。
そのほか、80年にフランスよりコマンドール文化勲章、同年紫綬褒章も受賞している。
九代 石翁宗室 不見斎(ふけんさい、1748年(延享3)~1801年(享和3))
本名は粂三郎(幼名)、玄室、宗室
裏千家9世家元 石翁玄室
8世一燈宗室の長男として生まれた。
26歳の頃に父の没にと伴い家元を襲名。
加賀金沢前田家や、伊予松平久松に仕えるほか、重大な仕事として、
1786年正月に起こった天明の大火による今日庵の修復、再建、同時に家宝類の整理にあたる。
翌年9月には、今日庵の再建を完成させ、その披露と利休二百回忌をかねての茶会を主催。
また、日野資技に学んで和歌を能くした。
そのほか、三男の宗什を武者小路家に出して、武者小路家6世家元にしている。
十四代 碩叟宗室 淡々斎(たんたんさい、1893年(明治26)~1964年(昭和39))
本名は政之助(幼名)、永世、宗叔、宗室
裏千家14世家元 碩叟宗室
13世円能斎宗室の長男として生まれる。
30歳のときに、父の没に伴い家元を継承。
また、この間、書画を日本画の奥谷秋石に学んで、玄石と号して日本画を制作。
そのほか長唄、謡曲、能などに親しみ文化人としての自我の研鑽に努めている。
主な業績としては伊勢神宮を始め、各地の寺、神社においての献茶式をこなし、
また茶道文化の海外進出にも視野を広げてヨーロッパ、アメリカなどを外遊。
さらに、1940年には裏千家統一の為に「淡交会」を結成、49年には「財団法人・今日庵」を結成、
また、その後国際茶道文化協会を設立するなど、日本全国及び海外に支部を設けて
益々の隆盛につなげ、近代裏千家中興の祖として、1957年に茶道界として最初となる紺綬褒章、
紫綬褒章を受章、没後、征四位勲三等旭日中綬章を下賜されている。
十一代 精中宗室 玄々斎(げんげんさい、1810年(文化7)~1877年(明治10))
本名は千代松のち栄五郎(幼名)、宗室
裏千家十一世家元 精中宗室
三河国領主松平乗友の子として生まれた。
1819年、裏千家10世認得斎の養子となり、認得斎や大徳寺大綱和尚の下で茶道はもとより、
謡曲、香道、華道、和歌、書、国漢文に至るまで、多岐にわたり文学を学び
自我の研鑽に努め、17歳の頃に認得斎の没に伴い宗室を襲名。
また認得斎長女まち子と結婚。
主な仕事としては、歴代の家業であった加賀金沢前田家や、伊予松山久松家にての茶道奉行の他、
松平家出身ということも有り、尾張徳川家にも仕えている。
さらに、1839年の利休250年忌の法要茶会では、3千家の中心的宗匠として催し、
それに伴い邸内の増築を行っている。
また、妻のまち子氏が1845年に早死しており、その後、妹であったてる子氏と再婚。
印名は「今日」 「宗室」 「玄々」 「虚白画」 など。
八代 一燈宗室 又玄斎(ゆうげんさい、1719年(享保4)~1772年(明和8))
本名は十一郎(幼名)、宗室
裏千家8世家元 一燈宗室
表千家6世原叟宗左の3男として生まれた。
次兄であった政之助(裏千家7世竺叟宗室)が25歳で突然没した為、
15歳のときに、今日庵に養子として入って、裏千家8世を襲名。
加賀金沢前田家や、伊予松平久松に仕えるほか、
当時の茶道人口の増加に伴い大徳寺無学宗衍らの協力を得て、
長兄の表千家7世天然宗左と共に、「七事式」を制定、これにより千家流の茶道の隆盛につなげた。
また、1751年には天然宗左が他界しており、このとき8世表千家宗左が8歳と幼かった為、
1758年の千宗旦百回忌の法要茶事では、一門の代表者として主催している。
五代 常叟宗室 不休斎(ふきゅうさい、1673年(延宝元)~1704年(宝永元))
本名は与三郎(幼名)、宗安、宗室
裏千家5世家元 常叟宗室
4世仙叟宗室の長男として金沢に生まれる。父の薫陶を受ける。
父の没後、前田家への出仕を受け継いだが、
その後、伊予松山藩の久松候からも茶道奉行として招かれて
京都、金沢、松山を行き来する多忙な月日を送る。
早死の為、遺品は少ないが華やかな朱を用いた道具を好んでいたとされる。