ニュンフェンブルク

1747年、選帝候マックス3世により創立される。
1761年にミュンヘンのニュンフェンブルク城に移り、今に至っています。
ブランドのロゴは、バイエルンの選帝候と王室の紋章からなっています。

ニュンフェンブルクの製品は磁器製造の工程に使われる動力の全てを昔ながらの水車による水力発電に頼るという方法を頑なに守り続けています。
また製造工程においてのまず第一歩である陶土作りにも、食器やフィギュリンに
最も相応しい陶土にするために定期的にコントロールをしながら2年という長い時間をかけ、
フォルムを作る工程ではカップなども型を使わずろくろでひとつずつ作り上げ、絵を描き、
完成するまでのその工程のすべてを完全な手作業で行なっています。

金彩に使われているのは高品質の24金で、どんなに古くなっても変色することはまずありえないでしょう。
ニュンフェンブルクの製品を一度手にとれば、その完璧なまでのクオリティの高さに納得がいくことでしょう。
現在のニュンフェンブルクは、従来は裏側にひっそりと隠れていたブランドマークや
商品番号・ペインター番号などを商品のモチーフの一つとしてしまうという斬新なデザインをはじめ、
新鋭デザイナーによる様々な新しいデザインにも意欲的に取り組んでいます。

伝統的なものから最新デザインのものまで、幅広い魅力を備えた最高級ブランドです。

ドレスデン

ドレスデンはドイツ東部、チェコ共和国との国境と程近い所に位置し、
古くから高級磁器製造の拠点として歩んできました。

ドイツ連邦共和国ザクセン州の首都であり、ドイツのみならず欧州全土の歴史上、
重要な役割を果たしてきました。
創始者のヨハン・カール・ゴットリープ・ティーメは、娘達と共に磁器製品の製作を始めました。
1868年ドレスデンのプラガー通りに初のショップをOPENしました。
このころに今でも愛され続けているドレスデンローズ、ドレスデンブーケなどのデザインが完成しました。
現在は、Dr.アーノルド(美術史学者、博物館美術館館長、大学教授経験者)社長、
ザイファート(財務)社長のもと各部門のマイスターその他、 社員力を合わせて手仕事の奇跡と評価された
SPMドレスデンの磁器の美を守り続けているのです。

ドーム

ドーム兄弟は、19世紀~20世紀のフランスのガラス工芸家。
兄オーギュスト(Auguste Daum,1853-1909)と弟アントナン(Antonin Daum,1864-1930)の2人。
オーギュストとアントナンのドーム兄弟は、フランス、ロレーヌ地方のビッチの出身。
アール・ヌーヴォー様式のガラス工芸家として、エミール・ガレと並ぶ存在である。

兄弟の父、ジャン・ドーム(1825-1885)はガラス工場の経営者であった。
オーギュストは1878年頃から、アントナンは1887年から、それぞれ父のガラス工場の仕事を手伝っている。
兄弟の呼びかけに応じた多くのデザイナーや画家、職人たちが参加して工房を発展させた。

1889年、フランス革命百周年のパリ万国博覧会に、ドーム工房はテーブルウェアなどを出品した。
この万博にはアール・ヌーヴォーの巨匠、エミール・ガレもガラス器、家具などを出品しており、ドーム兄弟はガレの作品から大きな刺激を受けた。

ドーム工房のガラス器は1894年、ナンシーおよびリヨンの博覧会で金賞を受賞。
1897年、ブリュッセルの万国博覧会でも金賞を取り、
同年、オーギュストにはレジオン・ドヌール勲章が授与されている。
1900年、パリ万国博覧会でも大賞を取り、この年アントナンにもレジオン・ドヌール勲章が授与された。1901年、エコール・ド・ナンシー(ナンシー派)が結成されると、アントナンは副会長に推されている。

近年では、アール・デコ時代のデザインを踏襲したパート・ド・ヴェール作品の復刻などで
名門メーカーならではの伝統色を打ち出している。
ナンシーには現在でも同社の工場が現存し、工場見学なども出来る。

ティファニー

ティファニー(Tiffany & Co.)は、世界的に有名な宝飾品および銀製品のブランド。
1837年、チャールズ・ルイス・ティファニーとジョン・B・ヤングの二人は、
ティファニーの前身であるティファニー・アンド・ヤングを設立。
1848年、フランスでの二月革命発生に伴い、貴族から重要な宝石を買い入れ、宝石事業に進出。
1851年、ニューヨークの銀細工師、ジョン・C・ムーアの事業を買収し銀製品製造を開始。
アメリカ企業としては初めてスターリングシルバー基準を適用した。
1853年、チャールズ・ルイス・ティファニーは会社の全権を握り、社名を今の、Tiffany & Co.に改称した。

ティファニーのカンパニーカラーは1837年から使用されているティファニー・ブルー(TIFFANY BLUE/TIFFANY BLUE BOX)であり、商標登録されている。
1940年に、ニューヨークの五番街・57丁目移転した本店は、オードリー・ヘップバーンが主演した映画『ティファニーで朝食を』のおかげで観光名所の一つとなっている。

ティファニー公式サイト

セーブル

1738年、民間でヴァンセンヌ窯が創設される。
1751年、ルイ15世は、ヴァンセンヌの陶器製造を独占事業とし、
フランスで他の製造所での陶器製作を禁じる。
1756年、ヴァンセンヌ窯をポンパドゥール夫人の館の近くのセーヴルの街に移す。
1759年、フランス王立製陶所となる。
1804年、フランス革命により閉鎖していたが、ナポレオンによって「国立セーヴル製陶所」として復活する。
1876年、セーヌ川沿いのサン・クルー公園に接した広大な敷地に移転。これが現在の「国立セーヴル製陶所」の工場である。 その隣には「セーヴル国立陶磁博物館」がある。
(1824年に「陶磁器とガラス器の博物館」として建てられた。)
1986年 パリにショップが出来る。

セーヴル磁器は、今でも18世紀と同じように轆轤(ろくろ)を回して作られています。
年間約6000ピースに限定されて作られていて、そのほとんどがオフィシャルテーブルウェアや
政府のオフィシャルギフト用になるので、稀少性が高いのです。

貴重な作品はパリのセーヴル陶磁博物館に展示されています。

サン・ルイ

サン・ルイ Saint Louis
サン・ルイは、フランスで1586年に創業したヨーロッパで最も古い硝子器メーカー。
現在はエルメスグループの傘下にある。
ルイ15世が、既存のガラス工場を王立ガラス工場とした際に与えられた名前。

鉛を配合した透明度と強度の高いガラスやサンルイクリスタルの開発に成功し、
ガラス工業で遅れを取っていたフランスを一気に盛り上げた。
王制時代には、技術の流出を防ぐため、遠方へ行く際はかならず申請をするなどの
制限が従業員に課せられ、最高は死罪まであった。
それだけ製品の完成度が高いということである。

現在も作り続けられていますが、クリスタルの重みや切子技術の細やかさ、
昔のサンルイグラスは、現在のもよりずっと滑らかで細かな曲線でできています。
戦前の方が今より良い商品を生み出していたと言われています。

KPMベルリン

ベルリン王立磁器製陶所(KPM Berlin)は1763年9月19日、プロイセン王国・ベルリンのフリードリヒ大王によって創業された磁器製陶所。
西洋初の白磁として成功したザクセン王国・マイセンのヨハン・フリードリッヒ・ヘドガーが
地元ベルリンから逃亡し、別の地で成功したことに忸怩し、
大王自ら指揮を執り、1763年に “王家の青紋章”をシンボルにした陶器工場を作らせました。
マイセンから技術者を集めるなどをして、ベルリン王立磁器製陶所を最高水準へと高めた。
以来、各時代様式を反映した陶器を次々と生み出して行きました。
時代の流れを経て、KPMの名前は陶器の世界でモダン・クラシックを代表する存在として
位置付けられています。

愛好家達はKPMの陶器を『白色をした金』と呼びます。
1点1点が手作りされているため唯一無二の作品は、特徴的な絵柄でも世界的な認識を得ています。
伝統的な手作業による製造方法と、クオリティの高い技巧、そして先進の創造性とのつながりが
この陶製品の歴史を築いたと言われています。

クリストフル

クリストフル Christofle
フランスのシルバーウェアの老舗、食卓の芸術の代名詞であるクリストフル。

19世紀半ばの創立以来、時代と共に高い評価を受けたメゾンとして、
銀製品、装飾芸術の制作を続けています。

クリストフルはマン・レイ、ジャン・コクトー、ジオ・ポンティー、銀細工師リノ・サバティーニ、
クリスチャン・フェルディンシュタッド、アンドレ・プットマン、マーティン・ツェケリー等
クリエーター達と共に歩んでいます。

ナポレオン三世やローマ法王にも愛されたその銀製品は約条の芸術品とも称され、
今も世界の一流ホテル、レストランで愛用されています。

Christofle公式サイト

ガレ

シャルル・マルタン・エミール・ガレ(Charles Martin Émile Gallé、1846年5月4日 – 1904年9月23日)
アール・ヌーヴォーを代表するフランスのガラス工芸家、陶器・家具のデザイナー、アート・ディレクター、企業経営者。

シャルル・ガレの家庭に生まれる。
リセでは優秀な成績をおさめ、特に詩には深い造詣を見せていた。
ドイツ、ヴァイマールに留学し、詩、文学、哲学、植物学、鉱物学、建築学、装飾美術をおさめた。
植物学においては大家となり、今日においても植物学者としての存在は大きな力を残している。

当時の美術界をゆるがしたジャポニズムの先導者、また象徴主義の原動力として、
その功績は 画家ギュスターヴ・モローと並んで、19世紀末フランスの代表的芸術家として、
その名をとどめている。

1901年、「エコール・ド・ナンシー」(ナンシー派)の会長に就任。

現在、残された作品の芸術性の高さは、比類なきものと、今日また世界的に再評価されている。

オキュパイド・ジャパン

オキュパイド・ジャパン Occupied Japan
日本が第二次世界大戦で敗戦し、その後アメリカの占領下となりました。
その1947-1952年の約5年間、日本から輸出する物には
Made in Japanだけではなく、Made in Occupied Japanとする事を義務付けられました。
Occupiedとは、占領されたという意味です。
陶器や玩具がよく知られているが、カメラや双眼鏡のような光学機器、計算尺のような製品もあります。

コレクターの間では「Occupied Japanもの」「MIOJもの」などと呼ばれ、
特別な価値を持って取引されています。
アメリカでは、オキュパイド・ジャパンアイテムのコレクターも多く、関連書籍なども出版されており、
オキュパイド・ジャパンコレクタークラブ、ショー等も開催されています。