野口小蘋

野口小蘋(のぐち しょうひん、1847年(弘化4)~1917年(大正6))
大阪出身。本名は親子、旧姓は松邨(松村)。字は清婉、号は玉山のちに小蘋。

大阪の漢方医松邨春岱の長女として生まれる。
幼少時より書画を好み、若年ながらに雅号「玉山」を使用するほどの画力を持つ。
更に日根対山に師事して、本格的に南画を修め、その他独自に浮世絵や中国画を研鑽。
特に、明治初期以降の活躍が目覚しく、1882年第一回内国絵画共進会、
84年第二回内国絵画共進会、89年パリ万国博覧会等、各展覧会に次々と出品。
一躍閨秀画家として名を残す。

また、この間、1877年に滋賀県蒲生郡の酒造業野口家の正章に嫁いで野口姓に改姓。
79年には甲府に転居している。
その他、1873年には皇后御寝殿花卉図8点の制作に従業、更には英照皇太后に作品を献上。
1902年、常宮内親王及び周宮内親王の御用掛を拝命など皇室関係の仕事に多く従業している。
1904年、女性初の帝室技芸員にも就任。
1905年、大正天皇即位に際して、御大典祝画屏風を献上した。
大正6年2月17日没70歳。娘に画家の野口小恵がいる。

印名は「野口親」 「野口親印」 「小蘋女史」 「小蘋」 「松邨親」(「松村親」)
「松邨親印」(「松村親印」) 「清婉」 「字清婉」 「埜親之印」 「山光澄我心」 など

野田九浦

野田九浦(のだ きゅうほ、1879年(明治12)~1971年(昭和46))
東京根岸生まれ。本名は道三、号は九浦

東京美術学校中退後、寺崎広業に師事。
歴史人物画を得意とした。また、狩野 探幽研究家としても有名である。

明治40年に大阪に移り、大阪朝日新聞社に入社。
夏目漱石の「坑夫」の挿絵などを手掛ける。
また当時、大阪画壇で活躍していた北野恒富と、大正美術会を結成し、
大阪画壇の隆盛に貢献した。

俳諧にも興味を持ち正岡子規に学んだ。
祖父に書家の野田笛浦をもつ。

印名は「野」 「九浦」 「九浦所作」 「野田道印」 「道三」 など

野村文挙

野村文挙 (のむらぶんきょ、安政元年(1854)~明治44年(1911) 58才没)
京都四条鳥丸の長刀鉾町に生まれる。幼名は松太郎。字は子融。画人の雅号は、文挙のほかに右泉、福吉翁など。

四条派の画家・塩川文麟に師事して、円山四条派の画法を学ぶ。
明治10年、京都府画学校開校、教鞭を取る。
明治22年、学習院の教授。

「写生画復興」の旗印のもと、展覧会に次々と大作を出品して受賞を重ね、画家としての地位を確かなものとする。さらに、森寛斎のもとで円山派の真髄を極めようとつとめる。

円山・四条派の写生画に、写実を重んじる近代的描法を加味した風景画作品を得意する。
その神髄は、彼の弟子である山元春挙らへと引き継がれてゆき、近代京都画壇の基礎を作った。

野長瀬晩花

野長瀬晩花(のながせ ばんか、1889年(明治22)~1964年(昭和39))
和歌山県出身。本名は弘男。号は芦秋(芦舟)、晩花

はじめは、大阪に出て中川蘆月に学び、その後、京都の谷口香嶠に師事。
また、京都市立絵画専門学校にも学んだが中退。
1911年、新古美術品展にて、三等受賞となるが、当初から、洋画的な色彩と
大胆な色面分割であり、文展では戯画だとして受け入れられなかった。
1913年、第7回文展京都会場前にて、秦テルヲとともに「バンカ・テルヲ展」を開催し
反文展の姿勢をとる。
1918年、国画創作協会が発足されると、その結成同人として参加した。
同会解散後は、中央画壇への出品を取りやめ、個展や中国外遊などにて作品を制作。

第二次戦時中は信州に疎開し、戦後の1946年に、同地の画家や歌人などを集めて白淡社を結成。
第10回展まで出品したが、1950年に白淡社を脱会。
狛江市において没、享年74。墓地は京都市営若王子墓地。

印名は「晩華」(「晩花」) 「飛露」 など

野島青茲

野島青茲(のじま せいじ、1915年(大正4)~1971年(昭和46))
静岡県出身。東京美術学校日本画科卒

16歳の頃、松岡映丘の画塾、木之華社に入塾。
その後、東京美術学校に学び、在学中の1936年に文展に初入選。
39年には、第一回日本画院展で日本画院賞を受賞。
41年には、高山辰雄、浦田正雄らと、日本が研究団体「一采社」を結成。
42年から、中村岳陵に師事。戦後からは日展に出品。
49、51年に日展特選、60年に菊花賞、65年には文部大臣賞を受賞した。

当初は、松岡映丘の画風が強く出た大和絵風の歴史風俗などをよく制作していたが、
晩年は、人物画の表現に幅が出て舞妓図、日本舞踊の名手とされた武原はんなどを
題材した作品を展開したが、画業半ばにして71年に心不全の為倒れた。

印名は「青茲」「青」「茲」など

野口幽谷

野口幽谷(のぐち ゆうこく、1825年(文政8)~1898年(明治38))
江戸出身。本名は続、通称は巳之助

1851年ごろより、椿椿山に南画を学ぶ。
1872年ウイーン万博「雌雄軍鶏」、77年に第1回内国勧業博覧会展「竹石図」(褒状)、
82年内国絵画共進会「菊花図」、88年日本美術協会展「矮竹子母鶴図」(銀牌)など
国内外の展覧会に出品・受賞を重ねる。
89年には滝和亭らと共に青年絵画協会を結成、93年に帝室技芸員を拝命する。

渡辺崋山、椿椿山と続く、謹直な画風で花鳥図、人物図などを得意とした。
門下には松林桂月。

印名は「幽谷畫印」(「幽谷之印」) 「輪樂」(「和楽」) 「臣読之印」 「東京之人」 「読之印」
「読印幽谷」 「米墨水神仙」 など

中島清之

中島清之(なかじま きよし、1899年(明治32)~1989年(平成元))

京都出身。
松本楓湖、山村耕花、安田靫彦に師事。
戦前までは、日本の風景や花鳥といった伝統的なものを多く書いたが
戦後は、古典芸能などを題材に選び新鮮な若々しい画風が特徴。

院展理事、東京工芸学校講師、東京芸大教授を歴任。
紺綬褒章、勲四等旭日小綬章、院展白寿賞、院展文部大臣賞、横浜市文化賞、
神奈川県文化賞受賞ほか多数受賞。
印名は「御龍」 「清」 「清之」 「清之画印」など

三男に日本画家の中島千波。

中尾淳

中尾淳(なかお じゅん、1917年(大正6)~(現在))
徳島県出身。京都絵画専門学校卒。無所属。

どの団体にも属さず現在まで活動を続けてきたため、
目立った賞などは受賞していないが、現代美人画の
雄として日本画壇に名を示す。

氏の描く美人画は、繊細、淡麗さを独自の色彩感覚で
表現しており、現在は個展を中心に活躍中。

印名は「淳」 など

鳥居清信

鳥居清信(とりい きよのぶ、1664年(寛文4)~1729年(享保14))
大坂出身。通称は庄兵衛

鳥居派初代

絵師鳥居清元の子として生まれ、1689年に父と共に大坂から江戸に移る。
その時父が市村座などの看板絵を手掛けたことから、清信も父に習い役者絵を描くようになり、
役者の手足をひょうたんのようなくびれた形に描き、描線をみみずが這っているような
メリハリある形で表現した「瓢箪足蚯蚓描(ひょうたんあしみみずがき)」とよばれる独自の描法を確立し
鳥居派の祖として名を馳せた。

役者絵が主であるが、そのほかにも菱川師宣の影響を受けた美人画なども残して、
また狩野派、土佐派の画技にも精通していたとされる。

印名は「清信」など

鳥居清倍

鳥居清倍(とりい きよます、1706年(宝永3)~1763年(宝暦13))
江戸出身。通称は庄二郎。

江戸中期の浮世絵師で鳥居派を打ち立てた鳥居清信の子、或いは一説で弟とも言われるが
その詳細のほとんどは不明。
宝永年間(1704~10年)~享保年間(1716~35)にかけてが活躍期といわれる。

役者絵などを得意とし代表作に「市川團十郎の竹抜き五郎」「草摺引市川團十郎の暫」
「市川團十郎・山中平九郎の象引」等がある。

印名は「清倍」など