俵屋宗達

俵屋宗達(たわらや そうたつ、(江戸前期頃、生没年不詳 )
寛永期の画家。能登の人。本名は野々村、字は伊年

門下に宗雪・宗説。
代表作に国宝「風神雷神図屏風」「源氏物語図屏風」等。

烏丸光広や本阿弥光悦の書巻下絵を行うなど、当時から一流の絵師とみなされていた。
宗達の出生については、金沢出身で、野々村性であるという説と、
京都、西陣織の俵屋井関の縁族かなど、不明な部分が多い。
日本を代表する近世日本画家。

印名は「伊年」 「宗謙」 「元如」 「對青」(「対青」) 「對青軒」(「対青軒」) など

玉舎春輝

玉舎春輝(たまや しゅんき、1880年(明治13)~1947年(昭和22))
岐阜県高山出身、本名は清水(旧姓)、秀次

一才の頃に、同県吉城郡古川村の陶器業を営む玉舎家の養子となり、以降、玉舎姓を名乗る。
1899年、19歳の頃に京都に出て、はじめ原在泉に大和絵の技法を学ぶ。
その後、山本春挙に写実的技法を師事。
春挙門による、早苗会展や文展で受賞を重ねる。
日本自由画壇を結成に参画、早苗会の解散とともに耕人社の結成に理事として参加。

作品では人物、風景を得意とした。

印名は「臥牛菴」(「臥牛庵」)「臥牛菴主」(「臥牛庵主」)「臥牛今龍主人」「長美」「玉舎秀印」「春輝」など

田淵俊夫

田淵俊夫(たぶち としお、1941年(昭和16)~(現在))

大学院を終了後、1967年にアメリカ、イタリアに外遊。
帰国後は、院展を中心に活躍する。
68年、53回院展にて初入選、71年春の院展奨励賞(以降も数回受賞)。
81年には院展外務大臣賞を受賞し、82年・85年の二度にわたり、
院展日本美術院賞・大観賞を受賞となる。
85年に日本美術院同人に推挙、88年には院展文部大臣賞を受賞。

そのほか院展以外の各展覧会にも出品しており、
シェル美術賞展佳作賞、セントラル美術館日本画大賞展優秀賞、山種美術館賞展優秀賞、
前田青邨賞など数々の受賞暦を誇る。

独特の緻密な線と淡色で描かれた草花が代表的な作品で、その細部にまでわたる描写力が
高い評価をされている。草花作品のほかに、奈良、インド、ベトナム、中国といった
日本・アジアの心象的な風景画にも独自の世界を築いている。

田能村竹田

田能村竹田(たのむら ちくでん、1777年(安永6)~1835年(天保6))
豊後国(大分県)出身。本名は孝憲、号は竹田、九畳(九重)仙史、花竹幽窓主人、随縁居士、他

豊後国岡藩の藩医の家に生まれる。
藩校で勉学し、詩文の才を見出される。
1798年、22歳の頃に、家は継がずに、藩校の儒学者として藩政に参加。
藩命により、江戸に遊学したときに、文人大家であった谷文晁に画を学ぶ。
1806年に眼病の治療の為、京都に訪れた際には、村瀬栲亭に詩文を学んでいる。

藩との対立により、1813年35歳の頃に官を辞して、詩や書画を生業として生活を始める。
京都、大阪、江戸などで浦上玉堂、青木木米、頼山陽等一流文化人と交流、
中国画を独自に研究し、豊後南画の創始者として名高い。

書画家としてのみならず煎茶、和歌、音楽などにも秀でた文人画家の代表格である。

多数の書画を残しているが、その中でも「歳関三友双鶴図」「暗香疎影図」「松巒古寺図」が
それぞれ重要文化財に指定されている。

印名は「竹田」 「竹田邨民」 「竹田生」 「竹田居士」 「憲印」 「田憲」 「芬陀利華」
「一笑千山青」 「自娯」 「神仙風度」 「無用人憲」 「醉月」(「酔月」) 「一片秋月」
「小白石翁」 「霊鑑得簫」 「九峰無戒納子」 「奇山異水」 「僕本恨人」 「水色山光」 「孝憲」
「前身胡蝶」 「子斎」 「致中和」 など

田能村直入

田能村直入(たのむら ちょくにゅう、1814年(文化11)~1907年(明治40))
豊後国(大分県)出身。本名は癡、通称は傅太、
号は直入、小虎、笠翁居士、画仙堂、忘斎、幽谷斎

日本南画協会設立同人、京都府画学校初代校長

9歳の頃、同郷の画家であった田能村竹田に画を学び、その後、技量を買われて養子となる。
1840年頃には、大坂で篠崎小竹に、儒学を学び、大塩平八郎、富岡鉄斎らと
煎茶を通じて親交を深め、画家としても認められ始める。
また、62年には青湾茶会(煎茶の茶会)を発起・主催して絶大な名声を上げている。

68年、京都に居を移し、京都府画学校の設立に参画(80年開校)、
校長に就任するなど後進の育成に尽力、さらに96年には鉄斎らと共に日本南画協会を設立し、
近代日本画、南画界に多大な貢献を示した。

画題は山水、人物、鳥獣、動物、草花と多岐にわたり
その中でも、精密な描写と雄大な迫力生命力を表現した南画山水に秀作が残り、
画に漢詩による賛を付した作品が多い。

印名は「白玉水生」 「田癡之印」 「田癡」 「癡」 「白雲青山」 「畑雲洞史」 「顧絶氏」 「直入居士」
「直入山史」 「直入山人」 「雲外賞」 「幽谷斎」 「幽谷斎生人」 「一字荘中」 「友山」 「竹翁」
「竹翁居士」 「小虎」 「臨済正宗四十世」 「大阿羅漢真像五百幅之壹」 など

谷文晁

谷文晁(たに ぶんちょう、1763年(宝暦13)~1840年(天保11))
江戸(東京都)出身。本名は正安

徳川田安家の家臣で、漢詩家の谷麗谷の子として生まれる。
幼少期より、狩野派の画家、加藤文麗に画を学び、その後、渡辺玄対に師事。

さらに各地を巡遊、大阪の釧雲泉、長崎の張秋谷に学んで南宋、北宋の中国画を修得。
また鈴木芙蓉の作品に私淑するなど、古画の模写を基本としながらも
蘭画の技法なども取り入れた、文晁様式の絵画世界を確立する。
その後、父の後を継いで、田安家に出仕し図録集「集古十種」の編纂に従事する。
また古画の模写などを担当。

画塾「写山櫻」を開いて多くの門下を集め、その中でも渡辺崋山、椿椿山、立原杏所など
優れた南画家を輩出、関東随一の文人画家としてその名を轟かせた。

代表作に「公余探勝図(重文指定)」、「木村蒹葭堂像(重文指定)」など

印名は「文晁」「文晁画印」「谷文晁印」「谷氏文晁」「寫山行楼」「文伍氏」「無二道人」
「一如」「無二」「無弐」「近江谷氏」「畫學斎」(「画学斎」)「畫學斎印」(「画学斎印」)
「蜨仙」「畫仙」(「画仙」)「樂山」「樂山叟」「七十五翁」「七十六翁」「蜨叟」など

田中頼璋

田中頼璋(たなか らいしょう、1868年(明治2年)~1940年(昭和15))
島根県出身。本名は大治郎。字は公敬。号は初め、豊文のち頼章、頼璋
円山派

初め森寛斎に師事し、その後上京し川端玉章に学ぶ。
主に山水画を得意とし、トラを描いた傑作で知られる。
文展が開催される以前から中央画壇で活躍。
同年文展が開始されると、一躍旧派の代表画家として注目された。
日展の前身である帝国美術院展覧会委員を務めるなど旧派の重鎮として活躍した。
また後年は、川端画学校の教授として後進の育成にも力を注いだ。
大正~昭和初期の日本画壇の重鎮的存在であった。

印名は「頼璋」 「田頼璋印」 「字公敬」 「字公敬印」 「字曰公敬」 など

田中訥言

田中訥言(たなか とつげん、1767年(明和4)~1823年(文政6))
名古屋の人。本名は敏

復興大和絵の祖。
石田幽汀、土佐光貞に師事するが、古典的な大和絵を好み、また有職故実にも精通し、
今までの各派の長所を取り入れた復興大和絵を創始する。

主に華麗な花鳥画を得意とする。
門下に浮田 一恵、渡辺清など。訥言や彼に従事する門下は、復興大和絵派と総称される。

代表作「四季花図」が重文に指定されている。

印名は「敏之印」「訥言」「訥言之印」「痴翁」「訥言陳印」「訥言陳人」「號得中」「虎頭」「田痴之印」など

田中柏陰

田中柏陰 (たなかはくいん 慶応2年(1866)~昭和9年(1934) 69才没)
静岡生まれ。名は啓三郎。字は叔明。別号に静麓、孤立、柏舎主人、空相居士。

17歳のとき京都に出て田能村直入に師事。
田能村竹田系の南画の画風を受け継ぎ、濃彩の山水画を得意とした。

田中柏陰を名乗り、画塾・画禅堂を開き多くの弟子を教授した。
のち関西南画界の重鎮となった。
竹田系統鑑定家の第一人者。

田中一村

田中一村(たなか いっそん、1908年(明治41)~1977年(昭和52))
栃木県出身。本名は孝。通称は(自称)飢駆我。東京美術学校中退

幼少期より、神童と称されるほど画力に秀で、蕪村、木米などの南画を模倣するに至る。
1926年、東京美術学校に入学、この頃の同期には橋本明治、東山魁夷など
後の巨匠と呼ばれる画家たちがいたが、一村は3ヶ月で病のために退学。
その後も病気や経済的な貧しさの為、中央画壇とは離れ、
南画のほか日本画を描き生計を立てていたが、なかなか認めてもらえずにいた。
戦後47年になり、ようやく川端青龍社展にて初入選となる(この頃から一村号を使用し始める)。
しかし、川端と対立し青龍社からも脱退。

55年、奄美大島のスケッチ旅行がきっかけとなり、以降奄美に在住。
大島紬の染色工場で働きながら同地の風景画などを残した。
生涯無名作家であったが、「奄美の日本画家」としてテレビなどで報道されて以来、
独特の画風と作品が見直されている。

印名は「米邨」(「米村」) 「一村」 「孝印」 「十四童孝」 など