高島北海

高島 北海(たかしま ほっかい、嘉永3年9月26日(1850年10月31日)~昭和6年(1931年)1月10日 80才没)
長州阿武郡(現・山口県萩市)出身、萩藩の藩医の子(幼名:和三郎)として生まれる。本名は、得三(とくぞう)。

大庭 学僊(おおば がくせん)に師事。
1886年のフランス東部美術展に日本画を出品、現地の高い評価を受けた。
47歳で公職を辞して郷里の長府(現・下関市)に隠棲するが、
52歳で再び上京、雅号を「北海」として中央画壇での活動を本格的に始める。

明治新政府の技官としての半生の上に、植物学の深い造詣を基礎とし、
南画に写生の技法を加えた清新な山岳風景画を描いた。

高橋草坪

高橋草坪(たかはし そうへい、1803年(享和3)~1834年(天保5))
大分県杵築の人。本名は雨、通称は元吉、字は沢民

幼少の頃より画に興味を持ち、初め同地の画家長谷部柳園に学ぶ。
田能村竹田が杵築を訪れた際に弟子入り、行動を共にする。
師の勧めで京都など各地を外遊し浦上春琴、帆足杏雨などと親交を深め、
その後は大坂を中心として活躍するが、32歳の若さで病を患い大坂にて没。

作品は、師竹田をよく継承し、南画の秀作が残るが、早世のため遺作も少なく
「竹田が認めた幻の作家」とも言われている。

印名は「艸坪」(「草坪」) 「豆人天涯」 「雨印」 「高雨」 「小酌半醺」 など

曾我直庵

曾我直庵(そが ちょくあん)
本名は心誉

明から来朝した秀文(越前朝倉氏の家臣曽我氏を継ぐ)の弟子とされる。
式部蛇足に画を学び、豪放な筆使いで対象物を抽象化させた秀文画を修得。
その後、独自に元・明の画風を研鑽したとされているが、他説では曾我紹仙の子である
と言う説もある(式部蛇足の子が曾我紹仙であるとも言われる)。

越前朝倉氏が滅びると堺に移住して、曾我派を立て直した画家と言われているが、
正確な歴はあまり多くない。

代表作に「涅槃図(重文指定)」、「鷹之図屏風(桃山時代)」など。

印名は「直庵」「心譽」(「心誉」)など

曾我紹仙

曾我紹仙(そが しょうせん、1521年(大永)~1555年(天文頃(詳細不明)))
飛騨(岐阜県)出身。本名は兵部 、玄仙、景種

北陸越前国飛騨の朝倉氏に仕えた秀文の弟子式部蛇足(曾我宗丈)の子といわれるのが、
一般的な説であるが正確な出自は不明。
秀文様式の豪放な筆使いを修得する一方で、南宋時代の画家牧渓の画を加味して
後年の曾我派の基礎を築いた画家と言われており、子の曾我直庵に受け継がれていると推測されている。

印名は「紹仙」など

曾我蕭白

曾我蕭白(そが しょうはく、1730年(享保15)~1782年(天明元))
京都出身。

正確な略歴などは解明されていないが、京都の商家の出身との説が有力で
初名を三浦暉雄と称しており、画風から、当時の狩野系画家高田敬輔が師であったとされている。

又、独自に中国の古画を研究、極彩色、墨画共に優れた花鳥、山水、人物画を残し、
顔貌描写にも優れ、大胆な筆使いの中に緻密な描線を混在させて画風を確立。

代表作に「寒山拾得図(重文指定)」「久米山人図屏風」「群仙図屏風」などを残している。

印名は「曾我氏」 「曾我暉雄」 「曾我師龍」 「師龍」 「蕭白」 「祐邨」 「鬼甲」 「虎道」 「蛇足軒蕭白」
「輝一」 「暉」 「鬼神斎」 「如鬼」 「鸞山」 「明雄」 など

千住博

千住博(せんじゅひろし、昭和33年(1958)~)
東京都生まれ。ニューヨーク在住。名前の「ひろし」は正しくは右上の点のない「十専」という表記である。

慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部・慶應義塾高等学校を経て、2浪後、1982年、東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。1987年、同大学院博士課程修了。
1994年、第7回MOA岡田茂吉賞、絵画部門優秀賞受賞。
創立100周年のヴェネツィア・ビエンナーレにおいて27年ぶりに日本人として優秀賞を受賞。
2000年、河北倫明賞受賞。
2002年大徳寺聚光院別院襖絵完成。
2006年フィラデルフィア松風荘襖絵(ウォーターフォールシリーズ)完成。

現在、京都造形芸術大学学長・同国際芸術研究センター所長、同付属康耀堂美術館館長。
日本画の存在やその技法を世界に認知させ、講演や著述等世界的視野で幅広い活動を行っている。

弟は作曲家の千住明、妹はヴァイオリニストの千住真理子。父は千住鎮雄。

公式ホームページ Hiroshi Senju

雪村周継

雪村周継(せっそん しゅうけい、1504年(永正元)~(没年不詳))

室町期後期の画僧。
生まれは常陸国太田(現在の茨城県)で佐竹氏の出身と言われている。
禅宗に入り僧籍となり、その後、関東各地を周遊して作画、また、はじめ周文に私淑したのち
雪舟に私淑したため、雪村周継と称し福禄寿や山水画など雪舟の模写かと言われるほどの
腕を持ったとされる。

晩年は両師の画風を離れ宋・元の名家牧渓の筆致を追求。
また、雪村は常に作品には唐紙(通称雪村紙)を用いて製作したといわれる。

代表作に「松鷹図双幅(重文指定)」「呂洞賓図」。

印名は「雪村」 「周継」 「厳水」 「東山道人」 「水孚」 「字子誠」 など

雪舟等楊

雪舟等楊(せっしゅう とうよう、1420年(応永27)~1506年(永正3))
備中国(岡山県)出身

幼少時より仏門に入り、10歳の頃に京都相国寺に参禅、禅の修業の傍らで周文に画を学ぶ。
また、遣明使に随行して明国(中国)に渡り、各寺を参禅しながら水墨画の研鑽に努める。
帰国後は、周防国(山口県)の画室雲谷庵に居している。

代表作「天橋立図」、「四季山水図巻(山水長巻)」、「秋冬山水図」、「破竹山水図」、「山水図」、
「慧可断臂図」の6点が真作として、国宝に指定されているが、「伝・雪舟」とされる作品も多く
真贋の判別には意見が分かれている。
また、当所、拙宗等楊とも名乗っていたともされているが、全くの別人ともされている。
室町期水墨画を代表する人物であるが、現在でも国宝でありながら推測中心の
まだまだ確定されていない作家でもある。

関主税

関主税(せき ちから、1919年(大正8)~2000年(平成12))
千葉県出身。東京美術学校卒

東美卒業後は、1948年に結城素明、中村岳陵の指導を受け、日展を中心に制作。
以降、入選を続け、63年日展会員に推挙、68年に日展評議員、また日展内閣総理大臣賞を受賞。
86年、前年の日展出品作で日本芸術院賞を受賞、92年には同芸術院会員に就任している。

風景画を中心に制作し、特に、山水、花鳥作品の描写力、色彩感覚、構図のとり方などに優れ
関東日展の代表的な作家の一人として活躍した。

印名は「主」「主税」など

瀬川艶久

瀬川艶久(せがわ えんきゅう、1902 ( 明治35 )~)
東京都出身。

京都で西山翠嶂に師事して、官展に出品を重ねる。
戦後は日展に出品。

晩年は名古屋に移り、地道に画家活動を続けた。

作品は時代風俗の美人画、立雛図など端整な作品を多く残す。

印名は「瀬川艶久」など