住吉弘貫

住吉弘貫(すみよし ひろつら、1793年(寛政5)~1863年(文久3))
江戸出身。本名は広定のち弘定
住吉家7代目幕府御用絵師

住吉廣行の次男として生まれ、兄には住吉広尚を持つ。
兄の後を次いで住吉家7代の当主となり、幕府に出仕。

土佐派の画風をよく研究し、住吉家代々の中でも一,二を争うほどの名手とされ、
その技量が認められて、旗本格を与えられている。

印名は「藤原弘貫」 「弘貫」 「定國画道」(「定国画道」) 「三子」 「敬徳」 「藤廻屋」
「静江」 「戯圖」(「戯図」) 「土佐廣定」(「土佐広定」) 「廣定」(「広定」) など

住吉廣道

住吉廣道(すみよし ひろみち、1599年(慶長4)~1670年(寛文10))
堺(大阪府堺市)出身、本名は光陳(幼名)、広通

はじめ土佐光陳と名乗った土佐光吉の門人であったが、1661年に剃髪して如慶の号を賜り、
さらに後西天皇の命で、鎌倉中期の画家住吉慶恩の画を復興するために姓を住吉と改め、
のちに法眼を叙任。

穏やかで細緻な土佐派の画風を踏襲しながらも親しみやすい人物描写や漢画的な表現を加えた画風を
特徴として、子の具慶(住吉廣澄)が後を次いで住吉派を確固なものとした。

住吉家初代

印名は「土佐」「土佐廣道」(「土佐広道」)「廣道」(「広道」)「和畫士住吉」(「和画士住吉」)「住吉」「法橋」など

鈴木百年

鈴木百年 (すずきひゃくねん 文政8年(1825)~明治24年(1891) 64才没)
京都生まれ。名は世寿。字は子孝。別号に大椿翁。

初め北宗画を学び後四条派の画風をよくした。岸連山に師事する。
山水画を得意とし、鈴木派と呼ばれる流派を生み出した。
鈴木松年は子供。

鈴木竹柏

鈴木竹柏(すずき ちくはく、1919年(大正7)~(現在))
神奈川県出身。本名は賢吉、号は竹柏

地元の中学を卒業後は、中村岳陵の蒼野社に入塾、翌年の1937年より、内弟子扱いとなる。
38年、第25回院展にて初入選。以降同展や新文展などに出品していた。

戦後、47年より師、岳陵が日展に移ったのと共に、日展に出品を重ねる。
56、58年に特選と白寿賞、62年に菊花賞を受け、81年に文部大臣賞を受賞。
また、88年に前年の日展出品作、「気」により日本芸術院賞を受賞。
91年、日本芸術院会員に就任。

当初、院展に出品していた頃は、主に花鳥を描いていたが、
日展に出品しだす頃より、風景画を多く制作する。
特に、三浦半島の風景画や、奈良の大和路の風景画を主題にした物を多く残す。
さらに近年では、創造的な大自然をテーマに空気感、温度、澱清感など
目に見えない物の情景を黒系の色彩を用いて、その濃淡や塗り重ねにより表現し
重厚な作品に仕上げている。

2018年、日本橋高島屋にて百寿展を開催

印名は「竹」「竹伯」など

鈴木松年

鈴木松年(すずき しょうねん、1848年(嘉永元年)~1918年(大正7))
京都出身。円山派。

父、百年に学び、絵画共進会などで活躍。
巴里博覧会などに出品し、国内外で評価される。

主に人物、花鳥画を得意とし、大胆かつ豪放な筆使いであるが、
高度な画技によって、それによる嫌味さをカバーしている。

その他、京都府画学校の講師を勤め、退職後松年塾を開くなど後進の指導にも尽力し、
当時の京都画壇の重鎮的存在であった。
門下には上村松園など。

印名は「世賢」 「鈴木世賢」 「百僊」(「百仙」) 「松年」 「松年僊史」(「松年仙史」)
「梥年」 「源僊」 「老龍館主」 「老龍館松年」 「天龍叟鈴木賢松年印」 「芭蕉雨梅花雪」
「東錦楼」 「一日席画千枚之一」 「楊柳風悟桐月」 「粟畏雨雙霜擢」
「菅公千年祭梅松千畫一鈴木世賢筆」 など

鈴木春信

鈴木春信(すずき はるのぶ、1725年(享保10)~1770年(明和7))
江戸の人。本名は穂積春信。
錦絵の創始者。

初め、西川祐信に大和絵を学んだが、後に独自の研究を重ね、美人画専門の絵師となる。
さらに当時の文化人の大久保忠舒より、年末年始に配布する絵暦(現在のカレンダー)の製作を依頼され、
当時同じ町内に住んでいた平賀源内や刷物師、彫物師などと研究。
何色でも塗り重ねられる多色摺版画(後の錦絵)を完成させ、それまでの印刷の技術革新を起こした。

印名は「春信」ほか

杉山寧

杉山寧(すぎやま やすし、1909年(明治42)~1993年(平成5))
東京都浅草出身。

東京美術学校を卒業後、松岡映丘に師事。
山本丘人、高山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成する。
帝展、院展、日展などで活躍し、入賞、入選を繰り返す。
1934年、第一回日独交換留学生に選ばれ、ベルリン大学に学ぶ。
1947年、日展特選、50年日展審査員。56年日本芸術院賞受賞、58年日展評議員。
70年日本芸術院会員。74年文化功労者、文化勲章受章

1958年6月、長女瑤子が三島由紀夫と結婚。三島は瑤子を選んだ理由について
「芸術家の娘だから、芸術家に対して何ら幻想を抱いていないこと」を挙げた。

日展常務理事。74年日展理事長。76年西ドイツより大功労十字勲章受章。
77年東京国立近代美術館評議員。1950年代から1986年12月号まで『文藝春秋』の表紙画を描いた。

エジプトを中心に外遊し、作品は永遠性の憧景を秘めたイメージを構想。
現代を代表する日本画家の一人。

印名は「杉」 「寧」 「寧印」 など

菅楯彦

菅楯彦 (すがたてひこ 明治11年(1878)~昭和38年(1963) 85才没)
鳥取市生まれ。名は藤太郎。別号に盛虎、静湖。父は日本画家菅盛南。

幼時に両親とともに大阪へ移住。
父が倒れ、11歳で家業を継ぎ、絵で生計を立てた。絵は独学で父以外に師事することはなかった。

写生体を基調に独自の様式を形成。晩年は昔日の浪速風俗を主題に連作し、高い評価を得た。
1950年、日展の委嘱を受け、亡くなるまで出品した。
芸術院恩賜賞、大阪市名誉市民章、倉吉市名誉市民章。

沈南蘋

沈南蘋(ちん なんぴん、1682年(天和2)~1760年(宝暦2))
浙江省呉興(中国)出身

1731年に長崎に来航し、約二年間滞在。
その間に熊代熊斐、宋紫石などをはじめとして、多くの日本人画家に指導し、
写生性がつよい彩色花鳥画を長崎を中心に広める。
当時狩野派が中心とされていた画風に「南蘋派」として新風を興し、
後の円山応挙、渡辺崋山など花鳥画家に大きな影響を与えた。

印名は「南蘋」 「沈詮之印」 など

真道黎明

真道黎明(しんどう れいめい、1897年(明治30)~1978年(昭和53))
熊本県出身。本名は重彦(しげひこ)。太平洋洋画研究所卒

当初は、洋画を志し太平洋洋画研究所などで学んでいた。
1915年より日本美術院研究会員となり日本画に転向する。
堅山南風、横山大観、安田靫彦、小林古径らに指導を受ける。
翌年、院展初入選。21年に同人に推挙。
以降、院展に出品を続け、晩年の1975年に院展内閣総理大臣賞を受賞。

独自に中国、朝鮮に度々外遊して東洋美術の造詣を深め、
神秘的な風景画の画風を確立し、米国や欧州でも個展を開くなど国際的にも評価された。

印名は「黎明」「真」「真道」など