白鳥映雪

白鳥映雪(しらとり えいせつ、1912年(大正元)~2007年(平成19))
長野県出身。本名は九壽男(九寿男)(くすお)。号は映雪。川端画学校卒。

当初より、伊東深水に感銘を受けており、1932年に上京。
同郷の画家,丸山晩霞の紹介により、伊東深水に入門。
39年に日本画院展に初入選、また43年には文展初入選となる。

戦後は,47年の第3回日展初入選以降、連続して同展に出品し、入選を重ねる。
50年、57年に、特選と白寿賞を受賞して、65年に会員に推挙。
その後も、87年に日展内閣総理大臣賞、94年には前年の日展出品作「菊慈童」により
日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、97年より日本芸術院会員に就任している。
2003年には勲三等瑞宝章受章を受賞。
2007年6月15日95歳にて死去。

描写力はもとより構成力、色彩感覚にも優れ、
師、深水の画風をよく継承した美人画を得意とし、
小品の作品では、花図などにも秀作を残している。

清水信行

清水信行(しみず のぶゆき、1950年(昭和25)~(現在))
京都府出身。京都市立芸術大学卒

在学中の1972年、改組第4回日展に初入選。74年に日春展でも入選となる。
以降、両展やグループ展への出品を中心に活躍。
84年、日仏現代美術展国内賞を受賞。

東京セントラル美術館大賞展、京都画壇日本画秀作展、全関西展などに出品。
近年は東京、大阪、京都を中心に個展を毎年開催し制作活動を行う。

作品は正統派の風景画を描き京都、奈良など古都を瑞々しく描写。
また近作では富士を題材に自然の生命力を表現している。

印名は「信行」など

下村観山

下村 観山(しもむら かんざん、明治6年(1873)4月10日~昭和5年(1930)5月10日 58才没)
和歌山県和歌山市に生まれる。

8歳のとき東京へ移住。
狩野芳崖、橋本雅邦に師事する。
東京美術学校(現・東京藝術大学)を第一期生として卒業。
文部省留学生として英国に留学し、欧州各地を巡る。
大正3年、岡倉天心と行動を共にし、横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した。

下田義寛

下田義寛 (しもだよしひろ 昭和15年(1940)~)
富山県滑川市生まれ。

1963年、東京芸術大学卒業。院展に出品。
安田靫彦の助手として法隆寺壁画再現模写に従事。第52回展で奨励賞・白寿賞を得る。

大観賞、文部大臣賞、総理大臣賞を受賞。
1995年、倉敷芸術科学大学教授。2000年、日本美術院理事。

下條桂谷

下條桂谷(ごじょう けいこく、1842年(天保13)~1920年(大正9))
山形県出身。本名は正雄。号は雲庵。

はじめは、羽前国米沢藩の絵師目賀田雲川に師事し、狩野派の画を学ぶ。
維新後は、画業の傍ら海軍主計学校長、海軍主計大監、貴族院議員などを歴任し政界に入る。
1875年、狩野探美らと古書画鑑賞会を結成。
更に79年、龍池会(現日本美術協会)の結成に参加。
82年、第1回内国絵画共進会では審査員を務める。
83、年第1回巴里日本美術縦覧会に「葡萄に栗鼠図」を出品、87年日本美術協会委員長に就任、
98年に結成された日本画会では名誉会員に推挙されるなど活躍を示す。
1904年、米国セントルイス万国博覧会では金牌を受賞している。

伝統的な狩野派の人物表現や動物、花鳥の生命力豊な描写を得意とする。

印名は「正雄」 「一号秋渓」 「桂谷外史」 「桂谷山房」 「平正雄印」 「桂谷居士」
「雲庵」 「技翁」 「長笛聲倚樓」(「長笛声寄楼」) など

島田墨仙

島田墨仙(しまだ ぼくせん、1867年(慶応3)~1943年(昭和18))
越前福井出身。本名は豊。号は墨仙、玄雲閣。

福井藩士で円山派の絵師島田雪谷の子として生まれる。
父に円山派の画を学び、その後、橋本雅邦に師事。
狩野派および空間表現などの技術を会得。
1897年、日本絵画協会展にて「致城帰途」が三等銅牌受賞。
1907年、第一回文展にて初入選し、以降、帝展、新文展と出品を続ける。
その傍らで1919年には如水会の結成に参加。
晩年の1942年には、第5回新文展出品作「山鹿素行先生」で第二回帝国芸術院賞を受賞している。

人物画を能くし、特に、歴史人物の肖像などに秀でた作品を多く残している。

印名は「玄雲閣主」「豊」「豊之印」「「島田豊印」「墨仙」「墨山人」「弓鷹」「斿多可」など

島崎柳塢

島崎柳塢(しまざき りゅう、1865年(慶応元年)~1937年(昭和12))
江戸牛込に生まれる。本名は又輔。字は子文。

初め桜井謙吉に洋画学ぶが、日本画に転じ、竹本石亭に南画、松本楓湖に師事。
さらに川端玉章の「浜離宮秋景図」に感銘を受けて玉章に入門、画塾天真社で円山派を研鑽する。
明治31年、日本画会の結成に参加、33年玉章門下の无声会を結成。
40年、東京勧業博覧会二等賞牌を受賞する。
この年開設された文展では、評議員として参加、2年連続三等賞。
43年・大正3年・4年に褒状を受ける。
独自の研究を重ね、おもに人物画、特に美人画に定評があった。
晩年は、川端画学校の教授として後進の指導にも尽力した。

印名は「栩〃亭」「栩〃亭主人」「柳塢」「友輔」など

柴田是真

(しばた ぜしん、1807年(文化4)~1891(明治24))
江戸出身。本名は是真。号は令哉(画)、古満(蒔絵)

現在の東京日本橋東あたりに生まれる。
1817年、11歳の頃に、蒔絵師の古満寛哉に師事。
その後、26年には日本画を鈴木南嶺に学ぶ。
さらに、30年には南嶺の紹介で京都に遊学。岡本豊彦の下に入門して四条派の写実技法を修得。
33年、浅草に居住、是真と号して、蒔絵作品の制作をはじめる。

当時の蒔絵職人は、下絵を画工に任せるのが一般的であったが、
是真は自らで、下絵と蒔絵を一本化することにより創造性の高い作品を生み出すことに成功。
さらに、青海波の技法や漆絵の技法を創案、73年のウィーン万国博覧会や
77年の第1回内国勧業博覧会で賞賛を浴びて、晩年の90年には帝室技芸員の拝命を受けている。
91年、小川松民らと、日本漆工会創立するなど、当時の工芸界にも貢献を示した。
しかし、同年病気の為没(享年85歳)。

蒔絵、漆芸作品のほか、日本画などの平面作品にも多数の秀作を残す。

印名は「柴田氏印」「令哉閑人」「柴是眞印」(「柴是真印」)「含光書人」
「對柳居」(「対柳居」)「令哉」「是眞書癖」(「是真書癖」)「古満」「真」「曙」など

司馬江漢

司馬江漢(しば こうかん、1747年(延享4)~1818年(文政元))
江戸出身。本名は安藤吉次郎 、安藤峻

幼少時より画に興味を持ち、初めは浮世絵師の鈴木春信に師事、鈴木春重と号すようになる。
独立後、春信の贋作絵師として生活していたとされる(異論有)。
その後、谷文晁や宗紫石から日本画の指導を受け、狩野派や中国風の画技を習得。
さらに平賀源内や蘭学者の前野良沢の知遇を受け、次第に蘭学や洋画式油彩絵画に興味を引かれ、
ごま油(荏胡麻)を使用した油絵を製作、主に冨士など日本的な風景画をよく題材にしたとされる。

日本で始めて蘭書の解読から銅版画を創作した人物で、秋田の佐竹曙山らと共に
日本洋画創設者として評価は高く、その反面贋作も多数出回っている。

塩川文麟

塩川 文麟(しおかわ ぶんりん、文化5年(1808)~明治10年(1877) 70才没)
幼名は隼人、字は子温もしくは士温、号は初めは雲章、後に文麟、別に可竹斎や泉声答斎や木仏老人など、通称は図書(ずしょ)。

四条派の岡本豊彦に師事する。安井門跡の御抱絵師となる。
如雲社を結成し、幸野楳嶺ら多くの門弟を育てる。
幕末に平安四名家の一人と称された。

画風は横長の画面にその特色を見ることが出来る。
文麟は智にたけた技巧派肌の画家であり、風景画が中心であったが、
花鳥画といい何でもこなし、画域が非常に広かった。