豊川光長

1851年-1923年

明治から大正時代に活躍した日本の彫金家
15歳のという若さで柳川派の流れをくむ初代豊川光長に師事 のち養子となる
初代豊川光長は彫金家としての家元であり、卓越した技術と妥協の無い造形力で様々な作品を生み出していた。2代目の功績が高く彫刻界で注目をされている人物として知られている。宮内省用品などを製作した。養子となると本格的に彫金家として活躍をする。また、日本美術協会審査員としても活躍が見られた。
1923年、9月1日の関東大震災で死去。

田中清寿

804年-1876年

江戸後期-明治時代の装剣金工。
福島会津地方出身 江戸にすみ、西の後藤一乗とならび称された。
文化元年生まれ。河野春明(はるあき)に師事したといわれる。
通称は文次郎。号は東竜斎、寿叟など。

鈴木治平

1927年 千葉市に生まれ
東京美術学校(現・東京藝術大学)で鍛金を学び、卒業後も同校に残り、平成5年(1993年)に退官するまで長年にわたり後進の指導にあたる
現在は千葉県美術協会理事長、日工会理事をはじめ日展等の中心メンバーの1人として、
金属という素材を生かしながら、新しい鍛金の可能性を追求し続けている

鈴木貫爾

1919年~1982年

1919年 岩手県盛岡市に、南部藩お抱え釜師である「南部釜師」第13代盛久の長男として生まれる。本名鈴木信一。
1942年 東京美術学校工芸科鋳金部を卒業する 師は香取秀真
1946年 東京美術学校工芸科鋳金部講師 第2回日展に「壷」を出品して初入選する
1947年 香取秀真より貫爾の号を受ける
1957年 第13回日展に「テラスの為の装飾火蛾の踊り」を出品し、特選、北斗賞を受賞以来同展無鑑査、出品委嘱
1967年 日展会員となり

50年及び70-73年2度にわたり正倉院金工品の調査にあたり、著書『正倉院の金工』を76年に発刊する。73年より東京芸術大学教授をつとめ、77年には第13代盛久の死去により第14代盛久を襲名する。

須賀松園

1898~1979年
1898年 東京入谷の江戸風ろう型鋳物の草分けである初代松園の長男として生まれる
1925年 二代目松園を襲名 作風は江戸流といわれ、作品を日展に発表して注目され、66年会員となった。74年国指定無形文化財認定1966年 日展会員
1974年 国指定無形文化財認定
1979年 死去

齋藤明

1920年~2013年

1935年より父から型鋳造の技法を学ぶ
1938年 父の急逝 鋳物工場を引き継ぐ 工房は佐々木象堂、2代宮田藍堂ら蠟型を得意とした佐渡の鋳金家が冬の間制作場としたた     め、彼らから技術指導を受ける機会に恵まれた
1950年 高村光太郎の弟で鋳金家の高村豊周に師事し、豊周が72年逝去するまでその工房の主任をつとめた
工房では高村光太郎の彫塑原型のブロンズ鋳造を多く手掛けた
1968年 第13回日本茶器花器美術工芸展で青銅大壺「跡」で文部大臣賞を受賞
1973年 浅草寺五重塔の建立にあたって、塔納置の舎利容器を制作
1975年 日本伝統工芸展に「蠟型朧銀流水壷」を初出品、初入選し、以後日展から伝統工芸展に移る
1987年 第17回伝統工芸日本金工展に「蠟型朧銀花器」を出品、東京都教育委員会賞を受賞す
1993年 国の重要無形文化財保持者に認定
1995年 勲四等瑞宝章を受章した

関谷四郎

関谷四郎(せきや しろう、1907年(明治40)~1994年(平成6))
秋田県出身。

1928年、上京、帝室技芸員平田宗幸を師に持つ河内宗明に師事する。
鍛金技術を修行して日本鍛金協会展、商工省工芸展、文展へと出品を重ねる。
戦後からは、日展や新設された日本工芸会主宰の日本伝統工芸展の出品を中心に活躍。
特に日本伝統工芸展での活躍が目立ち、62年に初入選。
以降毎年出品して68年に同展最高賞となる日本工芸会総裁賞を受賞。
73年には同展の20周年記念特別賞を受賞した。
74年に紫綬褒章、77年に国指定重要無形文化財(人間国宝)の認定を受けている。
「打出」、「接合せ(はぎあわせ)」の技法に優れ、作品では大胆な造形と緻密な細工、
その両方の見事な融合、調和を生み幻想的な世界を表現した。

印名は「志郎」 など

鈴木長吉

鈴木長吉(すずき ちょうきち、1848年(嘉永元年)~1919年(大正8))
埼玉県出身。

出自、師系などは不明な点が残るが、1874年に設立された起立商工会の鋳造部監督に就任し、
輸出向け鋳造品に「嘉幸」銘の作品を多く残す。
自身も76年フィラデルフィア万博では「銅製鋳物香炉(スコットランド王室美術館蔵)」で優勝。
1885年、ミュルンベルグ万国博覧会では「青銅製鷲置物」で金牌を受けると共に絶賛を受ける。
この頃より鷲、鷹などの猛禽類の造形を追及するようになり1893年シカゴ万博に最高傑作の一つ
「鷲置物(重要文化財・東京国立博物館蔵)」、また、同万博に林忠正(パリ美術商・前起立商工会社勤務)
が考案し、鈴木長吉が製作指揮を執り鋳造、彫金、漆工、木工、染色など各分野の職人を集め
四年の製作期間を経て完成させた「十二の鷹(東京国立近代美術館蔵)」を出品し一層の名声と地位を確立。

96年に帝室技芸員を拝命、猛禽類以外にも1900年の「岩上双虎図置物(パリ万博出品作)」などを製作しているが、その表現力や迫力はその比ではない。

※前記のとおり長吉は起立商工会社勤務時代に「嘉幸」銘の作品は多く残しているが、
それもほとんどが海外輸出向けであったため現在日本では希少。

正阿弥勝義

正阿弥勝義(しょうあみ かつよし、1832年(天保3)~1908年(明治41))
美作国津山二階町の彫金師中川勝継の3男として生まれる。(岡山県津山市)

父に指導を受けた後に18歳の時に岡山藩お抱えの彫金師正阿弥家の養子となり正阿弥家9代目を襲名。
以後、実兄でもある中川一匠(江戸幕府及び宮中の御用職人)の指導を受ける。
藩の庇護を受けていた頃は刀装具などを手がけたが、明治に入ると廃刀令により苦難となるが、
刀に対しての彫金の技法を花瓶や香炉などの室内装飾品、彫像などの美術工芸品に施して
国内外の展覧会に積極的に出品して入選・受賞を重ねた。

作品では極限までに追求された写実的な表現で丹念に作り上げ、
またその作品の色数の多さ、鉄錆地の美しさは、陶磁の彫金師の中でも群を抜いている。

清水南山

清水南山(しみず なんざん、1895年(明治28)~1948年(昭和23))
広島県出身。東京美術学校彫金科卒業

卒業後は、同校研究科にて加納夏雄、海野勝眠に、また同校塑像科にで藤田文蔵にそれぞれ師事。
更に1904年より太平洋画会夜間部に通い木炭画をの技法を学ぶ。
1909年より15年まで香川県立工芸学校教諭に就任。
その後奈良法隆寺に一年半古美術研究の為滞留し16年に上京して彫金を自営。
18年に大正天皇即位式記念「金荘飾太刀」の装飾彫金担当であった岡部覚也が病没し、
その代役に抜擢されて翌年に完成させ、一躍宮内からの注目を集めるようになる。
27年の「御大礼御釼」の装飾彫金制作や29年靖国神社奉納燈篭二基などの宮内からの依頼の仕事をこなしており、
34年には帝室技芸員を拝命。
35年には日本彫金会会長、帝国美術院会員(後37年に芸術院会員)に就任。

代表作に「梅花紋印櫃」、「波に流水紋水瓶」ほか