今泉今右衛門(1897年-1975年) 肥前有田の窯家。 焼物の三右衛門(柿右衛門、今右衛門、太郎右衛門)の一つ。赤絵屋十六軒の一つで江戸期は鍋島藩の御用赤絵師。
佐賀藩の支配下にあった肥前国有田・伊万里(佐賀県有田町、同県伊万里市)は日本における磁器の代表的な産地として知られるが、その中で大川内山(おおかわちやま、佐賀県伊万里市南部)にあった藩直営の窯では藩主の所用品や将軍家・諸大名への贈答品などの高級品をもっぱら焼造していた。これを近代以降「鍋島焼」と呼び、「伊万里焼(有田焼)」と区別されている(有田磁器の一様式と位置付け、「鍋島様式」と呼称する場合もある)。鍋島焼の伝統は1871年(明治4年)の廃藩置県でいったん途絶えたが、その技法は今泉今右衛門家によって近代工芸として復興され、21世紀に至っている。 当代は十四代。
今右衛門の世界
カテゴリー: あ行(陶芸)
伊藤鐐一
伊藤鐐一(いとう りょういち)
愛知県出身
日展を中心に日本伝統工芸展、日本現代美術展、シカゴ工芸美術展、日中親善美術展、
日ソ工芸美術展、中部日本美術展、愛知県展などに出品。
松尾流の茶釜などを製作。
日本工芸会正会員、全国工芸家協会委員、愛知県産業工芸会理事長。
印名は「鐐」など
板谷波山
(いたや はざん、1872年4月10日(明治5年3月3日) – 1963年(昭和38年)10月10日)は、明治~昭和期の日本の陶芸家。茨城県下館市(現、筑西市)に生まれる。
板谷波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、
日本における最も初期の存在である。陶芸家の社会的地位を高め、
日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。
明治22年 東京美術学校彫刻科に入学し、岡倉天心、高村光雲らに学んだ。 明治40年に東京勧業博覧会に出品した「磁製金紫文結晶釉花瓶」が三等賞を受賞、陶芸家としての名が広まりました。
昭和35年には重要無形文化財保持者(人間国宝)の候補となるが、これは辞退している。
波山の、自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家であるという自負が辞退の理由であった
と言われている。
彼は昭和38年、工房のある田端にて没した。 絶作(最後の作品)『椿文茶碗』は没年である1963年、波山91歳の時の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。
理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は
平成16年、映画『HAZAN』(監督:五十嵐匠、主演(波山役)榎木孝明)でも公開された。
( ブルガリア・ヴァルナの国際映画祭でグランプリを受賞)
茨城県筑西市に板谷波山記念館がある。
鑑定人・鑑定機関
東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713
池田瓢阿
池田瓢阿 2代(いけだ ひょうあ、1914年(大正3)~2003年(平成15))
大阪府出身
竹工芸師初代瓢阿の子として生まれる。
父の手ほどきを受けて竹芸の道を精進、1933年に2代瓢阿を襲名、さらに茶人・数奇者として
名をはせていた増田鈍翁にも師事して、使いやすさを基本とした竹工茶道具を製作。
戦後53年には竹芸教室「竹楽会」を設立、また、75年より本業の竹工芸のほか陶芸にも挑戦し
茶碗なども手掛け晩年は瓢翁と号した。
作品は1955年の日本橋三越初個展以来、度々各地の百貨店などで発表しており
65年より日本伝統工芸展にも出品、陶芸作品も85年に「古田織部を募る陶芸展」として発表した。
印名は「瓢阿」 釘彫瓢箪印
青木龍山
(あおき りゅうざん、1926年8月18日 – 2008年4月23日)は陶芸家。
本名・青木久重。多摩美術大日本画科卒。
昭和29年、第十回日展に「花紋染付大皿」で初出展初入選を果たし、
以降順調に入選を重ねて、やがて天目(てんもく)で地位を築いた。
平成4年に日本芸術院会員就任、作家として頂点を極める。
有田焼の代表的作家である。
生涯、弟子も取らずに夫人(綾子 2007年死去)と共に二人三脚で天目を焼き続け、
焼き物の里・佐賀で初めての文化勲章受章者となる。
「龍山の黒」と一般によく言われる。
たしかに黒天目なのだが実は黒一辺倒でもない。
「染付、染錦(そめにしき)もやるし、金砂、銀砂もよか。
近ごろは赤絵をいろいろ試しています。今後どんなふうに変わるか、まだ分からんですよ」
新機軸はこれからだと言いたげにニヤリと笑った。
平成20年4月23日、肝臓癌により死去。享年83(満81歳没)。
鑑定人・鑑定機関
東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713
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