藤田喬平

藤田喬平(ふじた きょうへい、1921年(大正10)~(現在))
東京都出身。東京美術学校工芸家彫金部卒

少年期よりガラス関係に従事した仕事を目指す。
当時はまだガラスを専門に教える学校などがなく東京美術学校工芸家彫金部に入学。
卒業後は、日展に鉄製のオブジェ作品を出品し入選となる。
以降は展覧会などには出品せず招待出品などを発表の場とする。
1947年、やはりガラス工芸への意欲を捨てきれず岩田工芸硝子に入社。
ガラス工芸の技術を学び、その後退社し独立。
1960年以降は東京・横浜・京都・大阪などの高島屋を中心に毎年個展を開催。
70年代後半からは海外での評価も高まり西ドイツ、デンマーク、スウェーデン、イギリス、アメリカなどの
各国の美術館・画朗で発表。

内外で多数の受賞歴を持ち日本のガラス工芸を世界レベルに押し上げた巨匠として有名。
当初は薄ガラスによる小皿・小鉢などを製作していたが、
70年代にはいりヴェネッィアガラスを研究し現地にて制作をするようになる。
近年は「手吹き」の技術を確立し色ガラスに金拍を導入し、
日本伝統技法のひとつである琳派を表現している。

宮城県宮城郡に藤田喬平ガラス美術館がある。(ふじた きょうへい、1921年(大正10)~(現在))
東京都出身。東京美術学校工芸家彫金部卒

少年期よりガラス関係に従事した仕事を目指す。
当時はまだガラスを専門に教える学校などがなく東京美術学校工芸家彫金部に入学。
卒業後は、日展に鉄製のオブジェ作品を出品し入選となる。
以降は展覧会などには出品せず招待出品などを発表の場とする。
1947年、やはりガラス工芸への意欲を捨てきれず岩田工芸硝子に入社。
ガラス工芸の技術を学び、その後退社し独立。
1960年以降は東京・横浜・京都・大阪などの高島屋を中心に毎年個展を開催。
70年代後半からは海外での評価も高まり西ドイツ、デンマーク、スウェーデン、イギリス、アメリカなどの
各国の美術館・画朗で発表。

内外で多数の受賞歴を持ち日本のガラス工芸を世界レベルに押し上げた巨匠として有名。
当初は薄ガラスによる小皿・小鉢などを製作していたが、
70年代にはいりヴェネッィアガラスを研究し現地にて制作をするようになる。
近年は「手吹き」の技術を確立し色ガラスに金拍を導入し、
日本伝統技法のひとつである琳派を表現している。

宮城県宮城郡に藤田喬平ガラス美術館がある。

岩田久利

岩田久利(いわた ひさとし、1925年(大正4)~1994年(平成6))
東京都出身。ガラス工芸の先駆者岩田藤七の長男として生まれる。東京美術学校工芸部図案科卒。

1939年~44年まで小寺健吉に洋画、42年~44年まで和田三造にデッサン、図案をそれぞれ学ぶ。
50年に東京美術学校工芸部図案科を卒業、その後、東京工芸大学窯業硝子研究室にて研修。
東京美術大学在学中の49年第5回日展にて初入選。
55年第11回展及び56年第12回展にて連続特選を受賞、76年改組第8回日展で文部大臣賞を受賞。
72年、日本ガラス協会を創設して初代会長に就任、79年紺綬褒章、81年第23回毎日美術賞選出、
82年には日本芸術院賞を受賞。

展覧会発表のほか日本橋三越をはじめ各地の百貨店にて個展多数開催、
国内外美術館博物館に作品所蔵多数。

多彩な色ガラスの調和と金銀彩を基調とした作品を制作、
更にセラミックなどの新素材も意欲的に取り入れて独自の美的空間を創作、
花瓶、壺といった鑑賞目的からグイ呑み、グラスといった小作品まで秀作を残す。

印名は「久利」など

石井康治

石井康治(いしい こうじ、1946年(昭和21)~1996年(平成8))
千葉県出身。東京芸術大学工芸科卒。

大学卒業後は東洋ガラスに入社。研究を進める傍らで独自に製作をはじめる。
76年にグループ展に初出品、その翌年に退社して独立。
78年、鎌倉一翠堂での初個展を開催。
以降、全国各地の画廊ギャラリー及び有名百貨店にて個展活動を開始、
85年には西武工芸大賞店特別賞を受賞。
そのほか各種公募展でも積極的な発表を行い78,81,84,87年に日本のガラス展、
82年東南アジア巡回現代日本クラフト展、84年金沢国際ガラス工芸展、
87,91,95年日本のスタジオガラス展、90年NY ART EXPOなどに出品を重ねた。

手吹きガラスで優雅な色彩のコントラストを表現し花器、酒器、(抹)茶碗、棗など製作。

印名は「康治」など

由水常雄

由水常雄(よしみず つねお、1936年(昭和11)~(現在))
徳島県出身 早稲田大学大学院修了

早稲田大学大学院卒業後は、チェコスロバキア政府招聘留学生としてカレル大学に学ぶ。
ガラス工芸史、東西美術交渉史などを研究、その後は各大学などで教鞭をとり、
更に東京ガラス工芸研究所、能登島ガラス工房などを設立する。
近代ガラス工芸研究、指導に尽力を示す。

著書に「図説西洋陶磁史」、「世界ガラス美術全集」などガラス工芸関連書多数。

並河靖之

並河靖之(なみかわ やすゆき、1845年(弘化2)~1927(昭和2))
京都市出身。本名は主税、靖之

川越藩家臣高岡九郎左衛門の子として生まれるが、
青蓮院宮侍臣並河靖全の養子となり並河姓を名乗り、
その家業を受け継ぎ自らも侍臣として仕える。
明治に入ると中国鬼国窯の七宝を研究しその模倣に着手。
1873年、その第一号となる七宝食籠を完成。
1874年、尾張の工人桃井英升(72年より京都で七宝会社を設立)を招いて指導を受ける。
1875年、京都博覧会に七宝花瓶を出品、有功銅賞を受賞して本格的な七宝制作に乗り出す。
翌年にはその技術の高さを認められて横浜のストロン商会と5年間契約を結ぶ。
同年フィラデルフィア万国博覧会に出品、銅賞を受賞。

国内外の博覧会に出品を重ね77年には第1回内国勧業博覧会鳳紋賞牌、
78年パリ万国博覧会銀賞、81年第2回内国勧業博覧会有功二等賞、
88年バルセロナ万国博覧会銀賞、89年パリ万国博覧会金賞、90年第3回内国勧業博覧会妙技一等賞、
93年緑綬褒章、93年シカゴ・コロンブス万国博覧会銅賞、95年第4回内国博覧会妙技一等賞、
1900年パリ万国博覧会金賞、1904年セントルイス万国博金賞ほか多数の受賞を得、高く評価される。
また、1896年には帝室技芸員を拝命している。

濤川惣助

濤川惣助(なみかわ そうすけ、1847年(弘化4)~1910年(明治43))
房総国鶴巻村蛇園(千葉県海上町蛇園)出身

1878年、第一回勧業博覧会にて七宝焼を見た時に七宝の海外輸出の可能性を見出す。
独自の研究により七宝制作に取り組み、それまでの七宝焼の根底を覆す「無線七宝」を完成。
1881年、第二回勧業博覧会に出品して名誉金牌を受賞。一躍その名が知られる。
83年アムステルダム万国博覧会、85年ロンドン万国博覧会にていずれも金牌、
89年パリ万国博覧会では名誉大賞を受賞、京都の並河靖之と共に日本の七宝技術の高さを世界に示す。
96年に並河靖之と共に帝室技芸員を拝命。

初期の頃は無線七宝の作品を多く制作していたが、
晩年になると有線七宝も作品に取り入れて近景に有線七宝、遠景に無線七宝を使うなど
遠近感を表現、より写実的な作品を作り上げている。

山川永徳斎

山川永徳斎(やまかわ えいとくさい)

初代永徳(雄七)、(文政12~明治41)は京都丹波国亀山藩(現在の亀岡市)の人で剣術指南役、山川多仲の7男として生まれる。
京都に登り「次郎左衛門雛」で有名な11代岡田次郎左衛門の下で修行を重ねる。
その後、左大臣勝子姫(後の照憲皇太后)の注文により市松人形を献上した。
安政4年頃に江戸支店を任されるが、明治初期(2年頃)に岡田家江戸屋敷を拝領、
独立して東京日本橋十軒店にて開業する。
その際、手放された市松人形の代わりに再び照憲皇太后に注文を受け、号を「永徳」から「永徳斎」と賜る。
以降、宮中御用や財閥関係、上流階級から大いに受注を得た。

現在4代。各代の作品を見ても気品高い顔立ちと精巧無比な創造性が永徳斎の特長とも言えるが、
初代は江戸期の顔立ちを継承、2代は明治盛期の気品ある顔立ちと様相、
3代は大正期東玉などの幼い顔立ちと初~2代を継承する写実性ある人形を特長としている。
また初代は雛人形を中心に節句物を得意としたのに対し、2代以降は武者人形に秀作が多い。

林駒夫

林駒夫(はやし こまお、1936年(昭和11)~(現在))
京都市出身。

1958年、京都の人形師13代面屋庄三(岡本庄三)の主宰する「あまがつ会」に入門。
伝統的な技法の桐塑や和紙張りを用いた人形制作を開始する。
1963年より、能面師の北沢如意の元で修行。
1973年、第20回日本伝統工芸展で「乙御前」が入選、日本工芸会総裁賞を受賞。
以後、日本伝統工芸展、伝統工芸近畿支部展などに出品、入選を重ねる。
1997年、理事。2002年には幹事長にも就任、同年、国指定重要無形文化財の認定を受ける。

伝統技法を受け継ぎながらも独自の新しい技術を取り入れて人形を制作、
制作当初は舞妓や童子などを題材にしていたが、
次第に舞や歌舞伎など伝統芸能や中国、朝鮮半島の民族や風土に独自の解釈を加えた
オリジナリティーの高い作品を制作。

野口光彦

野口光彦(のぐち みつひこ、1896年(明治29)~1977(昭和52))
東京出身。

江戸期より御所人形、有職雛人形などが製作されてきたが
それらは主に愛玩人形あるいは、祭事物であった。
野口や後の人間国宝の2代平田郷陽、野口明豊、堀柳女等により、
昭和11年の帝展に出品し入賞したことを機に美術工芸としての存在を示すようになる。
野口は代々東京有職御所人形師の家に生まれその家業を継ぐが、
伝統を受けとめながらも当時の人形界の独創性を自らかんがみ、
独自に創作人形の製作を開始する。

戦後には日展、日本工芸会に出品。
また審査員、理事などを務め戦後~現在の人形芸術の基礎を築き、
上記作家等と共に日本人形界発展に尽力した一人としての功績は現在の市場評価以上のもの
として高く評価されている。

印名は「光彦」など

伊東久重

伊東久重(いとう ひさしげ)

江戸期からなる京都の人形師。
はじめは、枡屋庄五郎を名乗る薬種商であったが、享保年間(1716~36)の頃、
当時の当主庄五郎が人形制作に秀でていた事から、家業を人形師に転向。
初代庄五郎は、祇園祭長刀鉾の守護神「和泉小次郎親衛」や、病除け人形の「草刈童子」を制作した事で
評判となり、遂には時の帝であった後桜町天皇にも聞き及んで、1767年に御所に呼ばれて以降、
朝廷に仕える人形師として「有職御人形師伊東久重」の名を拝領。
また、入神の作に限り捺すようにと、天皇家と同じ十六菊紋印を下賜されている。
以来、天皇家御用達の人形師として代々伊東久重の名と技巧を今日の十二代久重まで受け継がれている。

京都祇園祭の山鉾の一つである月鉾の稚児人形「兎麿」は、5代(5世)の代表作の一つでもある。