志村ふくみ

志村ふくみ(しむら ふくみ、1924年(大正13)~(現在))
滋賀県出身。文化学院卒業

母から植物染料や織物について学ぶ。
芸術一般を富本憲吉、黒田辰秋の両師に師事。
1957年、第4回日本伝統工芸展初入選。以来同展に出品・受賞を重ねる。
78年に日本工芸会理事、83年京都府文化功労者表彰、86年紫綬褒章、
90年「紬織」技術で国指定重要無形文化財(人間国宝)に認定、93年に文化功労者に認定。

天然染料特有の微妙な色調を生かし、紬糸の素朴さや温かみを表現した作品を発表。
また、伝統的な染織技法を守りながらも現代的な感覚を取り入れる。

北村武資

北村武資(きたむら たけし、1935年(昭和10)~ (現在))
京都市出身。

幼くして父親を亡くし、また戦後の経済不況もあって中学卒業より生活の為に西陣織の職工として働く。
次第に織物に興味を持つようになり様々な技法を会得。
また独自の研究を続け自らの創意による文様や技法を研鑽。
1965年、日本伝統工芸染色展に初出品で、いきなり日本工芸会会長賞を受賞。
同年の秋には日本伝統工芸展にも出品して初入選を得ている。
以来、両展に出品を続け染色展では日本工芸会賞(4回)、東京都教育委員会賞、
伝統工芸展ではNHK会長賞、日本工芸会賞、保持者選賞を経て94年に日本工芸展保持者賞を受賞。
他、90年にMOA岡田茂吉大賞展工芸部門大賞を得ており同年京都府無形文化財保持者に認定、
95年「羅」の復元技術、2000年「経錦」の復元技術により、
それぞれ国指定重要無形文化財(人間国宝)の認定を受ける。

作風は、古時代の織物を独自に研究、更に72年に写真で見た「羅(透ける網目状の織物)」の
技法を見て感嘆しその復元を試みて試行錯誤の末、翌年に完成させる。
そのことが転機となり「羅金」、「経錦」、「羅経錦」と次々に幻とされていた技法復元に取り組んでいる。

落款名は「武」など

鎌倉芳太郎

鎌倉芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31)~1983(昭和58))
香川県出身。東京美術学校図画師範科卒

東京美術学校を卒業後は教諭として沖縄県立女子師範学校に赴任。
1924年より琉球芸術の研究に着手する。
特に古琉球王家伝統の染色技法である紅型(びんかた)の資料収集や再現に力を入れる。
東京に戻った後も研究を続け、「琉球紅型」、「古琉球型紙」などを刊行。
1942年、東京美術学校助教授に就任。

戦後には日本伝統工芸展が発足されると58年第5回展より出品を重ねる。
72年第19回展では日本工芸会総裁賞を受賞。
1973年には「型絵染」の技法により国指定重要無形文化財に認定を受けた。

長年の紅型の学術的な研究と独自の色彩論を交えた型絵染を展開、芳太郎の研究及び作家活動は
沖縄文化の見直しや向上に大きな貢献を示し「沖縄文化の救世主」とまで称された。

尚、長男は日本美術院展重鎮の日本画家鎌倉秀雄。

稲垣稔次郎

稲垣稔次郎(いながき としじろう、1902年(明治35)~1963年(昭和38))
京都府出身。日本画家の家に生まれる。
京都市立美術工芸学校図案科卒

京都市立美術工芸学校図案科卒業後は三越・松阪屋などで呉服の意匠図案の研究及び制作に着手。
1931年、独立。
国画会、文展などに出品・入選を重ねる。
1941年に国画会工芸部同人に就任、また同年第4回文展、43年第6回文展で特選を受賞。

戦後は46年第1回日展にて特選を受賞。
陶芸家富本憲吉との知遇を得て同年に富本主宰の新匠美術工芸会発足に参加、
この頃より型絵染の作品制作に着手。

桃山・江戸期の小袖を基本としながら地元京都の風物や自然を取り入れた意匠・デザインの作品を制作。
1962年、型絵染技術で国指定重要無形文化財(人間国宝)の認定を受ける。

杉浦非水

杉浦非水(すぎうら ひすい、1876年(明治9)~1965年(昭和40))
愛媛県出身。東京美術学校日本画科卒

1897年に上京。日本画家を志して天真画塾にて川端玉章に師事。
1901年より東京美術学校(日本画科)にて学ぶ。
当時洋画科教授を務めていた黒田清輝との知遇により、図案家に転身し欧風図案の研究を進める。
卒業後より雑誌などにアールヌーボー調のデザインを投稿。
1908年、三越呉服店嘱託のデザイナーとして「みつこしタイムス」の表紙を担当。
1921年、光風会の創立に参加し、24年には創作デザイン研究グループ「七人社」を主宰。
1935年、多摩帝国美術学校の創設に参加。初代校長及び図案科主任教授に就任。
1955年、日本芸術院恩賜賞、58年紫綬褒章、65年勲四等旭日小綬章受章を受賞。

作品は三越のほかカルピス、タバコパッケージ、地下鉄ポスターなど多種多様。
日本における商業デザインに多大な功績を残した。

沢田宗山

沢田宗山(さわだ そうざん、1881年(明治14)~1963年(昭和38))
京都府出身。本名は澤田誠一郎。号は宗和園。東京美術学校図案科卒

東京美術大学在学中の1904年に渡米し工芸図案を研究、帰国後、澤田図案所を設立。
大正期から昭和期にかけて多くの友禅図案及びポスター、看板、酒ラベルの図案を手掛ける。
また陶芸家としても図案センスを生かした柄や文様を用いてオリジナリティー溢れる作品を展開し
小皿、向付といった食器~茶碗、水指といった茶陶まで幅広く作陶した。
昭和6年、京都伏見桃山に宗和園を築き、作陶に終始する。
陶芸作品は磁器ではなく陶器を主に制作されている。

印名は「宗山」など

雨宮静軒

雨宮静軒(あめみや せいかん、11代、1892年(明治25)~1973年(昭和48))
山梨県出身。本名は雨宮弥兵衛。東京美術学校卒

10代静軒、竹内栖鳳に師事。
江戸中期より続く硯職人の家系で伝統の雨畑硯を継承し、
江戸期では藩主献上用の硯を代々に渡り製作。
昭和期に入り、11代が硯の芸術性を高め戦後は各種展覧会で受賞するなど
現代硯匠の中で高い評価を得た。
主な受賞は、日本美術展覧会特選など。

日本伝統工芸会鑑査員

三浦竹泉

(みうら ちくせん)は京焼(清水焼)の窯元・名跡。当代は5代。

初代 竹泉 安政5(1854年)~大正4年(1915年) 号は「有声居」後に「篩月庵」。13歳の時に3代高橋道八に弟子入り。明治16年(1883年)に独立し、五条坂に窯を構える。京焼の改良に貢献する。器用な人物で、得意分野も染付、祥瑞、吹墨、色絵、金襴手など多彩。

五代 竹泉(昭和9年-) ※当代
四代長男。幼名「徹」。昭和32年同志社大学文学部・美学芸術学専攻卒。父(四代 竹泉)の元で修行の後、昭和47年襲名。京焼の歴史研究でも第一人者の一人である。

真清水蔵六

真清水蔵六 4代(ましみず ぞうろく、1933年(昭和8)~(現在))
京都府出身。

初代清水太三郎が13歳の頃、叔父の和気亀亭に陶法を学び五条坂に開窯。
名を蔵六と改め、さらに妙法院宮から「真」の一字を賜り「真清水蔵六」と号したのが初めとされる。
色絵、金襴手、青磁、などの技法を用いて主に抹茶器、煎茶器を製作。
印には玄々斎宗室から賜った「宗缶印」「保寿」「百寿」「真清水蔵六」「蔵六」の印を使用した。

二代蔵六は、初代の長男として生まれ、家業を継ぎ国内各地を巡遊。
また中国、朝鮮に渡り青磁や高麗、李朝などを研究。
帰国後は、大正六年に京都山科に開窯し真清水様式を確立した。
印には、初めの頃は父の百寿印を使用したが、25歳ごろから独自の蔵六印を使用した。

三、四代蔵六についても家業をよく守り、青磁、粉引、色絵などの技法を得意とし、
抹茶茶道具、煎茶道具を中心として製作し、また寿老人、動物の置物といった立体的な表現にも優れ、現在は五代蔵六が個展を中心に活躍し伝統の美と技を伝えている。

宮永東山

宮永東山 3代(みやなが とうざん、1935年(昭和10)~(現在))
京都府出身 京都市立美術大学彫刻科卒。本名は理吉

青磁や染付を得意とした二代宮永東山を父に持ち、自身も陶芸の世界に進む。
大学卒業後は、走泥社に入り近代陶芸界の抽象的な表現の第一人者の八木一夫、
さらに堀内正和らに師事し、「用」の陶芸よりもオブジェ的な「観」の陶芸をひたすら研究する。
1985年には国際陶芸ビエンナーレ・シャトゥル展出品など。

陶印は「東山」 釘彫「理」 「RIKICHI MIYANAGA」 など