河井寛次郎

(かわい かんじろう、明治23年(1890)8月24日~昭和41年(1966)11月18日 67才没)は、日本の陶芸家。

師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工。
東京高等工業学校では、陶芸家の板谷波山の指導を受けたほか、窯業の科学的研究を行った。

1920年、五代清水六兵衛の技術的顧問を務めていた縁で京都・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、
「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始する。
1926年、柳宗悦、濱田庄司とともに日本民芸美術館設立趣意書を発表。
富本憲吉、黒田辰秋、バーナード・リーチらとともに「民芸運動」にかかわる。

1937年、「鉄辰砂草花図壷」がパリ万国博覧会でグランプリを受賞。
1955年、文化勲章を辞退。
人間国宝、芸術院会員も、同様に辞退している。

京都市東山区には河井寛次郎記念館がある。

亀井楽山

亀井楽山(かめい らくざん、1945年(昭和20)~(現在))
福岡県出身。本名は亀井 弘

高取焼本窯の14代亀井味楽の弟として生まれる。
16歳の頃より兄の下で作陶修行を始め、兄の補佐を行う傍ら、自身の作品を制作。
翌、1962年より福岡県美術展に出品を重ね、同年の初入選以降毎回入選を重ね、
64年には佳作賞、72年には福岡県市長賞、75年には知事賞などを受賞。
また、77年より同展審査員を歴任。この間64年より西部工芸展にも毎回出品・入選を重ねている。
他、80年より日本伝統工芸展、西日本陶芸展、毎日陶芸展などにも入選を重ねており、
87年に日本工芸会正会員に認定。
90年には兄の陶房から分家して独立、93年には第1回ポールアンビュー賞に選出されている。

作風は、伝統の高取焼の陶土や釉薬を基本としながらも、独自のユニークな造形により、
現代風の茶陶を中心に制作。

陶印は「樂山」「高」など

 

金重素山

金重素山(かねしげ そざん、1909年( 明治42 )~ 1995年( 平成7 ))
岡山県出身。人間国宝金重陶陽の弟として生まれる。

幼少期より陶器焼成に携わり兄と共に作陶を展開。
戦後の1951年、京都府北部綾部の宗教団体大本(教)の出口直日(後の三代大本教主)に
陶技指導に招かれて、京都亀岡に花明窯を開窯。
共に作陶指導に招かれていた石黒宗麿に油滴天目の技法を師事。
1960年、大本本部に鶴山窯を開窯。
1964年、岡山市郊外に円山窯を開窯。
1982年、故郷の備前に戻り牛神下窯を開窯した。

電気窯の導入により桃山期の火襷窯変の再現に成功。
主に茶陶を手掛けるが備前のほかに大本での陶技指導の経験を経て
自身も志野、織部、唐津など諸窯の研究にも取組み幅広い造詣を示している。
1974年、山陽新聞文化賞。
1983年、岡山県無形文化財認定。
1990年、文化庁長官表彰など。

尚、子息に長男金重 愫、三男金重有邦氏がおり、共に現代備前作家の第一線にて活躍を示している。

加藤唐九郎

(かとう とうくろう、明治31(1898)1月17日~昭和60(1985)12月24日 88才没。
陶芸家、また陶磁史研究家。
愛知県に半農半陶で窯業を営む加納桑次郎、みと夫妻の長男として生まれる。
本名は庄九郎。子に陶芸家 加藤重高がいる。

美味しんぼ 登場人物の一人唐山陶人は加藤がモデルである。

唐九郎記念館
名古屋市守山区小幡北山2758-413

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713
https://toobi-tocfa.or.jp/judge/

角谷莎村

角谷莎村(かくたに しゃそん、1911年(明治44)~1987年(昭和62))
大阪府出身

角谷巳之助の次男、角谷一圭(人間国宝)の弟として生まれる。
兄と共に父について釜制作、鋳造を始め日本伝統工芸店、大坂工芸展などで出品。

伝統の技法と現代茶会との調和を考えて、斬新な造形を展開するが特に老松地紋の名手として知られる。

印名は「角谷」など

木村盛和

木村盛和(きむら もりかず、1921年(大正10)~(現在))
京都府出身

木村三兄弟の長兄。
1937年国立陶磁器試験所に入所し、基礎的な技術を身につけるが戦争中は出兵となる。
戦後からは復員し、京都五条坂に築窯、天目釉の研究を始める。
64年に日本伝統工芸展優秀賞(NHK会長賞)、62年プラハ国際陶芸展入賞、
64年日本陶磁器協会賞と受賞を続ける。
76年に自然との調和を求め福井県朝日町に移転し、86年には福井県文化賞を受賞している。

戦後の作陶以来、鉄釉、天目釉の作品にこだわり制作を続け、独自の釉薬である鉄銅釉を完成させ
各都市の高島屋などで個展を中心に活躍。
伝統的な天目釉や鉄釉を長年研究しながらも、作品は氏独特の斬新なデザインと重厚なフォルムが
特徴的で多くのファンを魅了する。

陶印は「木村盛和」 「盛和之陶」 「盛」 「盛和」 など

河村蜻山

河村蜻山 (かわむら せいざん、1890年( 明治23)~1967(昭和42))

京都市出身。粟田焼、川村卯三郎の子、弟に同じく陶芸家の河村喜太郎がいる。

父、卯三郎は帯山与平衛製陶所の陶工。
蜻山も明治36年第3期生として同41年まで京都市陶磁器試験場で陶技を磨く。
43年、神坂雪佳の佳都美会に参加。後、粟田口に築窯し、楠部彌弌などと共に赤土社に参加する。
昭和13年には千葉県我孫子に移窯、また同29年神奈川県鎌倉明月谷に明月窯を築く。
日本近代陶芸の一人として現在でも海外を中心に人気が高いが、遺品は少ない。

亀井味楽

亀井味楽 14代(かめい みらく、1931年(昭和6)~(現在))
福岡県出身。号は隠居後に又生庵。

九州を代表する陶窯として有名な、高取焼を代表する亀井家に生まれる。
伝統の技法を受け継ぎ、祖父13代亀井味楽に師事。
1964年に14代を襲名、同年、日本伝統工芸展に初入選、以降同会や日本陶芸展などで活躍する。
77年には福岡市指定無形文化財技術保持者に認定。
88年に国際芸術文化賞、92年に福岡県技能功労賞などの受賞歴を持つ。
2001年に長男の正久氏に15代味楽を襲名させ、隠居後は又生(庵)と号して現在も作陶を続けている。

味楽時代は伝統の技法を忠実に守り「黄釉」と呼ばれる伝統の釉薬を用いた装飾性の高い作品を
得意としたが、引退後に200年前に途絶えたとされる金彩釉の復元に成功し、個展などで発表している。

陶印は「味樂」「味楽」「高」ほか

加守田章二

加守田章二(かもだ しょうじ、1933年( 昭和8 )~ 1983年( 昭和58 ))
大阪府出身。

京都市立美術大学工芸科在学中に富本憲吉、近藤悠三らの指導を受ける。
1956年、京都市立美術大学卒業。卒業後は茨城県の大甕窯設立に参加。
1958年、益子の塚本製陶所などでも修行を重ねて同地にて築窯、独立となる。
1960年、初個展を開催。
1961年、日本伝統工芸展にて初入選。
1964年、日本工芸会正会員に就任、以降66年日本陶磁協会賞、67年高村光太郎賞など受賞。
1968年、日本工芸会を退会して岩手県遠野に移窯、無所属として個展を中心に活動。
1974年、芸術選奨文部大臣賞を受賞、さらに晩年の79年には東京都久留米市に変わり製作を続けた。

当初は民芸風、須恵器などを模した作風であったが
日本工芸会退会後は手びねりにおける造形と独自の装飾性を展開して自由な表現を展開、
常に新作を打ち出し陶芸界に革新を起こしたが、50歳の若さで他界。
その才能は現在でも高く評価され惜しまれる。

尚、氏の陶芸を受け継ぎ伝統と現代アートの融合を、
弟の加守田貞三、子の加守田太郎氏が受け継ぐ。

陶印は、「加守田章二」「章」

岡部嶺男

(おかべ みねお、1920年( 大正9 )~ 1990年( 平成2 ))
瀬戸出身。加藤唐九郎の長男。

1954年、日展北斗賞受賞。
1956年、日展を脱退。
1957年、日本伝芸工芸展に出品し会員となるが、後に同会も退会。
「永仁の壺事件」後、妻方の岡部に改姓。
どの陶芸・工芸団体にも所属せずに孤独に一人、作陶を続けた。
そのため、賞などは、あまり受賞していないが、
昨今その作品を見直され、個展等が開催、人気を博す。 弟に、加藤重高がいる。
瀬戸・織部焼。

印名は、「嶺」 釘彫「嶺男」 など

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713