浅見五郎助

初代 浅見五郎助(あさみ ごろうすけ、1829年(文政12)~1895年(明治28))
摂津国(大阪府高槻市)出身。本名は辰親のち五郎助

元々は摂津高槻藩士樋口宗親の次男として生まれた。
後に京都の浅見家に養子として出され、その後、2代六兵衛の作陶指導を受けて、陶工となる。
1852年に京都五条坂に開窯。磁器、陶器共に制作し茶碗、菓子鉢、酒器等の器物や茶陶を能くした。
特に祥瑞の写しに優れ、自ら「祥瑞五郎助」を名乗る。
以降現在まで、京焼を代表する名家として代々五郎助の名と陶技を継承している。
尚、現在は6代目。

陶印は五角押印「祥瑞五郎介」、小判型押印「五郎介」など

永樂和全

(えいらく わぜん、1823年(文政6年)-1896年(明治29年)5月7日)は19世紀に活躍した京焼の陶芸家。
千家十職の一つ、土風炉師・善五郎の十二代である。
幼名は仙太郎。 1843年に十二代善五郎を襲名した。1871年、息子の得全に名を譲って隠居し、以降は善一郎と名乗った。

父・保全と同様、茶碗から香合、平皿などを主に手掛けている。
赤絵、交趾焼、仁清などの写しに優れた技量を示しているのも父と共通するところである。工房の人材にも恵まれ、幅広い作風の作品を残した。

三井記念美術館『永樂の陶磁器:了全・保全・和全:三井記念美術館蔵品図録』三井記念美術館(2006)

宇野仁松

宇野仁松(うの にんまつ、1864年(元治元)~1937年(昭和12))
京都出身。師は3代清風与平

陶芸の指導を3代清風与平に受けてその後に独立。
既存の技法のほか、中国の辰砂釉やトルコマット釉など当時の京焼にはなかった技法を研究。
また、器体造形の構築、海外貿易など京都における近代化への礎を築いた。
尚、初代宇野宗甕、宇野三吾の父としても有名で、そのほかにも近代彫刻家イサム・ノグチの陶芸の師でもある。

陶印は「仁松」など

井上良斎

井上良斎(いのうえ りょうさい、初代 1828 ( 文政11 )~ 1899 ( 明治32 ))
愛知県瀬戸出身。本名は、良吉。号は東玉園。

はじめ、犬山焼などに従業していたが、高須藩松平摂津守江戸藩邸に取り入れられお抱陶工として働き、
楽焼なども製作、また、この頃、竹本隼太に作陶指導を行う。
1866年、独立して浅草今戸に開窯、明治期には「東玉園良斎」と号し
主に輸出用の美術陶磁器として花器に大胆な釉薬掛けと人物などの造形をあしらった
隅田焼の製作に当り、起立商工会社などに納めた。

後に三代目は、大正から昭和にかけて、井土ヶ谷に「神奈川焼」を開窯。
主に輸出用に作品を大量に制作し、国力高揚、外貨獲得の一端を担っていた。
国内においても昭和3年帝展初入賞を皮切りに以後、帝展、文展、日展などを活躍の場とし、
日本芸術院賞や勲三等瑞宝章などを受賞(章)して日本を代表する陶芸作家としての地位を築いた。
作風は、青磁・白磁および掻き落しの技法を用いた線刻文様図柄に優れ、
落ち着いた色調の作品を多く創作した。

印名は、「良斎」「大日本良斎」など

伊藤赤水

伊藤赤水(いとう せきすい)新潟県佐渡郡出身。

佐渡の人間国宝五代伊藤赤水氏が主宰する無名異窯は
赤色を和らげた地味な灰色の地に淡い彩色を施した優雅な京のみやび(雅)の味わいで
広く人気があります。

2003年7月10日、重要無形文化財「無名異焼」保持者に認定された。(同時に無名異焼も指定)。

石黒宗磨

(いしぐろ むねまろ、1893年(明治26)~1968年(昭和43))
富山県出身。

東京・埼玉・富山・金沢などを転々として作陶し、昭和10年に京都大原に窯を築き定住する。
また、小山富士夫や加藤土師萌、金重陶陽、荒川豊蔵、加藤唐九朗らと親交を深め、
桃李会・柏会などをそれぞれ立ち上げる。

作風は自由奔放な表現し、黒釉・鉄釉・鉄絵・天目釉・唐津・色絵・灰釉などに優れた手腕を見せた。
特に昭和28年に天目釉で、文化財保持者に認定。
また昭和30年には、鉄釉陶器で重要無形文化財(人間国宝)に認定された。

陶印は「宗麿」(枠有・枠無) 「本窯」(長丸印) 「宗」 「八瀬窯宗麿」
「宗麿印」 「石黒宗麿」 「雅喜大将」 「いしくろ」 「初窯八せ」 「陶家宗麿」 「栩」 「栩園書屋」 「栩菴」 など

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713

浅野陽

浅野陽 (あさの あきら、1923-1997)
東京都本郷に生まれ。

初めは漆芸を専攻していたが、東京美術学校の工芸技術講習所にて富本憲吉、藤本能道らに影響されて
陶芸の道に進む。
独立後は日本工芸会主宰の日本伝統工芸展などに出品を重ね工芸会正会員に就任。
そのほか、個展を中心に作品発表。

「陶芸における美は使わないと半減される」との信念に基づき用の美を追求、特に食の造詣も深く研究して
料理と器形にこだわり作陶を展開。
その為、作品は鉢や盛器、皿といった日常使用を目的とした物が多く花瓶、香炉、香合などの茶陶は少ない。
また、陶芸入門書、料理入門書、など著書も多数出版。

鬼丸碧山

鬼丸碧山(おにまる へきざん、1947年(昭和22)~(現在))
福岡県出身。本名は勝弘

鬼丸雪山の長男として生まれる。1967年より父に師事して製陶を開始。
日本伝統工芸展、西部工芸展、九州山口陶磁展、日本陶磁展、中日国際陶芸展ほかにて入選多数。
そのほか日本橋高島屋、心斎橋大丸、福岡玉屋、広島三越にて個展開催。

作品では高取伝統の茶陶で茶入、水指などに秀作を残す。

陶印は、丸印「碧山」など

大野鈍阿

大野鈍阿(おおの どんあ、1885年(明治18)~1951年(昭和26))
岐阜県出身。本名は大野準一

はじめ、1909年に上京して品川で焜炉や行平といった生活雑器を焼いていたが、
13年に茶人・数寄者益田鈍翁に見出される。
以来、鈍翁所持の名品に私淑して陶磁器を焼成。
また、鈍翁から「鈍」の一字を受けて「鈍阿」と号して御殿山で作陶。
その後、1917年に上目黒、34年等々力に窯を移転。

鈍翁所持の名品を手本としている為、鈍阿の作品の幅は広く、素焼、楽焼、萩、唐津、三島など
諸窯の写しにその技量を発揮した。

陶印は、崩し字押印「鈍」押印「鈍阿」など