永樂妙全(えいらくみょうぜん、1852年 – 1927年10月1日)は、京都の女性陶芸家。
本名は悠。夫は永樂得全(14代 土風炉師・善五郎)。
1852年 京都府長岡京市で生まれる。
1910年 三井高保から、「悠」印を拝領。
1914年 「妙全」号を受ける。 1927年(昭和2年)没。
善五郎を襲名する事はなかったが、技量に優れ化彼女の作品への評価は高い。
永樂妙全(えいらくみょうぜん、1852年 – 1927年10月1日)は、京都の女性陶芸家。
本名は悠。夫は永樂得全(14代 土風炉師・善五郎)。
1852年 京都府長岡京市で生まれる。
1910年 三井高保から、「悠」印を拝領。
1914年 「妙全」号を受ける。 1927年(昭和2年)没。
善五郎を襲名する事はなかったが、技量に優れ化彼女の作品への評価は高い。
宇野宗甕(うの そよ、1888年(明治21)~1973年(昭和48))
本名は宗太郎
清水焼近代作家。
父、宇野仁松に師事する。
艶消しマット釉製作。
昭和27年「辰砂」京都市無形文化財認定。
昭和32年「青磁」無形文化財認定。
昭和40年紫綬褒章受賞。昭和42年勲四等瑞宝章授与。
印名は「宗甕」「晴雲山」「艸山」「宗」など
井上萬二(いのうえまんじ 1929年3月24日生)陶芸家。
有田の窯元に生まれ、苛酷な軍隊生活、
そして26年間にもおよぶ修業を経て培われた強靭な精神と肉体は、
傘寿を前にして、なおも精力的な作陶を続ける基盤となっている。
1952年頃に奥川忠右衛門の作品に衝撃を受け、門下生となり白磁や轆轤の技法を学んだ。
1958年に県立有田窯業試験場の技官として勤務を始める。その傍らで独自の意匠や釉薬の研究に励んだ。
1995年に人間国宝に認定された。
2007年現在、有田町で息子の井上康徳と共に井上萬二窯と平屋建てのギャラリーを構えている。
日本工芸会参与、有田陶芸協会長。
伊東慶(いとう けい、1924年( 大正13 )~ ( 現在 ))
京都府生まれ。陶芸家伊東翠壺を父に持ち自身も陶芸家を志す。
京都市立美術工芸学校を経て1944年、京都市立絵画専門学校を卒業。
1943年、文展に出品、初入選となる。
1953年、楠部弥弌主宰の京都青陶会に入会し師事。
また日展に出品し1965年、特選・北斗賞、1967年に菊花賞を受賞。
同時期より日本現代工芸展にも出品しており1965年に特賞、
1989年には文部大臣賞に選出されている。
そのほか個展では国内外で高く評価がされている。
作風は1969年に京都山科に築窯、独立したのをきっかけにそれまで主だった
陶器作品から磁器作品に転向、白磁、青磁の作品を制作したがデザイン感覚、造形力共に優れ
父の創作した翠壺様式を更なる発展に導いており、父同様海外での人気も高い。
日展評議員、現代工芸美術家協会参事、京都工芸美術家協会理事長など
京都市文化功労者表彰、京都府文化賞功労賞
日本現代工芸美術展文部大臣賞、日展菊花賞・特選北斗賞
陶印は、「慶」 釘彫「慶」。
石井不老(いしい ふろう、1899-1964)
明治32年生まれ。昭和29年岡山県重要無形文化財認定。
備前茶陶、細工物の名工。
明石の朝霧焼を学んだのちに伊部に築窯。宝瓶が特に人気があり、
宝瓶千個に般若心経を彫った「心経宝瓶」は製作に十数年を費やした労作として知られる。
晩年、赤の楽茶碗に取り組み、赤焼を完成させる。
陶印は、「与」。
浅蔵五十吉(あさくら いそきち)
大正2年2月26日-平成10年4月9日(1913-1998)
石川県寺井町(現・能美市)生まれ。
北出塔次郎(きたで・とうじろう)に師事。
49年(1974)日展評議員。
52年(1977)日展内閣総理大臣賞。
56年(1981)日本芸術院賞、日展理事就任。
59年(1984)勲四等旭日小綬章、日本芸術院会員。
平成4年(1992)九谷焼作家として初めてとなる文化勲章を受章した。
鬼丸雪山(おにまる せつざん、明治45年ー平成8年)
福岡県小石原出身
はじめ、博多人形師の置鮎與市の下で修行してその後、陶芸に転向。
1966年に高取焼窯元を開窯して独立。
以来、日本陶芸展、西部工芸展、九州山口陶磁展などを中心に入選を重ねるほか、
各百貨店個展ほか父子展開催。
現在は子息鬼丸碧山が窯主。
作品は主に伝統の高取焼で茶陶に秀作。
陶印は「雪山」など
大塩正義(おおしお まさよし、8代1933年( 昭和8 )~( 現在 ))
奈良県出身。赤膚焼7代大塩正人を父として生まる。本名は正義。
幼少期より陶芸に親しみ、父の薫陶を受けながら伝統技術の研鑽に励む日々を過ごす。
京都の6代清水六兵衛が主宰する京都陶芸家クラブに入り現代陶芸にも興味を持つようになる。
伝統技法を尊敬しながらも日展や現代工芸展、現代陶芸展、朝日陶芸展などに
現代感覚に溢れる新しい赤膚焼の創作を追及した作品を出品。日展では二度の特選。
1992年、改組第24回展において文部大臣賞を受賞。
1996年、前年の日展出品作「樹相」により日本芸術院賞を受賞。 現在、8代 大塩正人を襲名。
印名は、「正義」 押印「ま」など。
(えいらく ほぜん、1795年(寛政7年)-1854年(嘉永6年)9月16日)は、
19世紀に活躍した京焼の陶芸家。
千家十職の一つ、土風炉師・善五郎の十一代である。
1806年頃に十代善五郎である永樂了全の養子となる。1817年に十一代善五郎を襲名する。
土風炉師・善五郎として代々制作した土風炉の他、茶碗、向付や蓋物など様々な作品がある。
交趾焼、安南焼、金襴手など陶器・磁器の双方を手掛けております。
1843年に息子の和全に善五郎の名を譲って善一郎と名乗り、さらに1848年には保全(やすたけ)と名乗りを変えた。このため、没後は他の善五郎との区別のため保全(ほぜん)と呼ばれる。
今泉今右衛門(1897年-1975年) 肥前有田の窯家。 焼物の三右衛門(柿右衛門、今右衛門、太郎右衛門)の一つ。赤絵屋十六軒の一つで江戸期は鍋島藩の御用赤絵師。
佐賀藩の支配下にあった肥前国有田・伊万里(佐賀県有田町、同県伊万里市)は日本における磁器の代表的な産地として知られるが、その中で大川内山(おおかわちやま、佐賀県伊万里市南部)にあった藩直営の窯では藩主の所用品や将軍家・諸大名への贈答品などの高級品をもっぱら焼造していた。これを近代以降「鍋島焼」と呼び、「伊万里焼(有田焼)」と区別されている(有田磁器の一様式と位置付け、「鍋島様式」と呼称する場合もある)。鍋島焼の伝統は1871年(明治4年)の廃藩置県でいったん途絶えたが、その技法は今泉今右衛門家によって近代工芸として復興され、21世紀に至っている。 当代は十四代。
今右衛門の世界