辻永

辻永(つじ ひさし、1884年(明治17)~1974年(昭和49))
広島県出身。東京美術学校西洋画科卒

1908年、第2回文展より連続して出品を重ねる。
1916年、第10回文展にて特選を受賞、以降、文展、帝展、新文展と活躍を示す。
1920~21年の一年間渡欧。

戦後は、日展を主に出品の場として、1947年に帝国美術院会員に就任する。
58年~69年まで日展理事長を勤め、59年には文化功労者表彰を受ける。

制作当初は、山羊を主なモチーフにした作品を多く手掛けていたが、大正末期~昭和初期の頃より
温和な風景画を描くようになり、高い評価を受けるようになる。
植物愛好家でもあり、花を写生した作品も多く残す。

サインは「H.Tsuji」など

高塚省吾

高塚 省吾(たかつか せいご、昭和5年(1930)6月15日~平成19年(2007)5月28日 76才没)
岡山市出身。

東京芸術大学で梅原龍三郎、林武に師事。
1953年、卒業。新東宝撮影所美術課に勤務のかたわら「8人の会」を結成、個展を開く。
1955年、映画美術、バレエの舞台美術、衣装デザイン、台本の他、挿絵などの仕事を手掛け、多方面に活躍。

1970年代、春陽堂版江戸川乱歩全集の表紙絵、78年にはジャパン・エンバ美術賞入選、
1979年曹洞宗で受戒、80年『高塚省吾素描集 おんな』を出版し、裸婦美人画家としての名声を確立。
その絵はカレンダーやポストカードとなり画集は広く親しまれた。

ティファニー

ティファニー(Tiffany & Co.)は、世界的に有名な宝飾品および銀製品のブランド。
1837年、チャールズ・ルイス・ティファニーとジョン・B・ヤングの二人は、
ティファニーの前身であるティファニー・アンド・ヤングを設立。
1848年、フランスでの二月革命発生に伴い、貴族から重要な宝石を買い入れ、宝石事業に進出。
1851年、ニューヨークの銀細工師、ジョン・C・ムーアの事業を買収し銀製品製造を開始。
アメリカ企業としては初めてスターリングシルバー基準を適用した。
1853年、チャールズ・ルイス・ティファニーは会社の全権を握り、社名を今の、Tiffany & Co.に改称した。

ティファニーのカンパニーカラーは1837年から使用されているティファニー・ブルー(TIFFANY BLUE/TIFFANY BLUE BOX)であり、商標登録されている。
1940年に、ニューヨークの五番街・57丁目移転した本店は、オードリー・ヘップバーンが主演した映画『ティファニーで朝食を』のおかげで観光名所の一つとなっている。

ティファニー公式サイト

吉村忠夫

吉村忠夫(よしむら ただお、1898年(明治31)~1952年(昭和27))
福岡県出身。東京美術学校卒。

松岡映丘の画塾「常夏荘」に入り、大和絵を学ぶ。
新興大和絵会展などで活躍する。
また、独自に古典文学を題材にした、新時代の大和絵の模索研究を行い、
歴史人物画を得意とした。
山口蓬春、杉山寧、山本丘人らとならび、映丘門下高弟の一人。

印名は「多〃」 「多〃乎」 「与」 「忠夫」 「忠」 「与志牟良」 「与秖む良」 など

吉嗣拝山

吉嗣拝山(よしつぐ はいざん、1846年(弘化3)~1915年(大正4))
筑前国(福岡県)出身、本名は達、字は士辞

大宰府の町絵師であった吉嗣梅山の子として生まれる。
はじめ学問を広瀬淡窓の私塾「咸宜園」に入門、更に画家を志すようになり
京都に移って南画家中西耕石に師事。
その後、一時、明治維新により岡山備中倉敷に役人として赴任するが
その時事故に遭い右手を切断、以降、役人を辞して左手一本による画制作に専念。
また、秀作を多く残したことから左手拝山と称された。
また、自分の右手の骨から造った筆を愛用したと言われる。
1月11日69歳で没した。

印名は「拜山」 「拜山人」 「拜山左手」 「吉嗣達印」 「吉士辭印」 「江上清風山間明月」 「左手」 など

吉田善彦

吉田善彦(よしだ よしひこ、1912年(大正元)~2001年(平成13))
東京都出身。本名は吉田誠二郎(せいじろう)

1929年、速水御舟に師事。
37年に院展初入選、また同年より、小林古径に師事。
その後、院展を中心に制作活動を行い、57年に奨励賞・白寿賞、64年に院展同人に推挙。
73年院展文部大臣賞、81年院展総理大臣賞と受賞し、翌82年には日本芸術院賞に選出された。
また、東京藝術大学の教授や、院展の要職に就き、美術界に貢献した。

穏やかで淡い色彩を用い、柔らかい、やさしいタッチで日本各地の風景、
特に古い町並みや寺院などをモチーフに描き、独自の画境を確立。

日本美術院理事・評議員、東京芸術大学名誉教授、日本芸術院恩賜賞、毎日芸術賞、
院展内閣総理大臣賞、同文部大臣賞など。

印名は「善」「善彦」など

与謝蕪村

与謝蕪村(よさの ぶそん、1716年(享保元年)~1783年(天明3))
本名は谷口信章、長庚のち寅。字は春星。
号は蕪村、四明、夜半亭、朝滄、趙居士、夜半翁、三菓堂、雪斎、碧雲洞、落日庵、他多数

内田沾山、早野巴人に師事する。
江戸で俳諧を学んだ後、各地を行脚、そののち京に定住する。
丹後与謝を好み、よく赴いた。その地名を取って谷口から与謝と改姓する。
画は、中国や狩野、土佐派をよく研究し、独自の画風を築く。
松村呉春、紀梅亭に俳諧と画を、高井几董、江森月居、吉別大魯、高橋東皐らに、
俳諧を、横井金谷に画を指導する。

代表著書に「夜半帖」「玉藻集」「芭蕉翁符号集」「花桜帖」。
代表句集に「新花摘」「明鳥」。
画の代表作に「奥の細道図屏風」「野鳥図」の他に、池大雅との合作「十便十宜図(国宝指定)」がある。
俳諧、文学、画に長じ、多彩な才能を示した。

江戸で俳諧を学んだ後、各地を行脚、そののち京に定住し、丹後与謝を好み、よく赴いた。その地名を取って谷口から与謝と改姓する。 画は、中国や狩野、土佐派をよく研究し、独自の画風を築く。

印名は「朝滄」 「雅仙堂」 「春星」 「春星氏」 「謝長庚」 「謝長庚印」 「長庚春星」
「四明山人」 「丹青不知老到」 「趙居士」 「三菓堂圖書印」(「三菓堂図書印」) 「夜半翁」 など

横山操

横山 操(よこやま みさお、大正9年(1920)~昭和48年(1973)4月1日 53才没)
新潟県西蒲原郡吉田町に町医者の私生児として生まれる。後、横山家の養子となる。

当初、洋画家を志し上京し、洋画家の弟子となる。師の勧めにより日本画に転向する。
1939年に川端画学校日本画部の夜間部に入学する。

第12会青龍展に『隅田河岸』が入選。その後徴兵・召集される。
そのときの情景や想いなどが、後の横山の作風に影響したとされている。
復員し、帰国する。戦争で中断していた制作を再開。
『赤富士』の連作が人々の人気を集め、一躍有名画家となる。
1963年、新生横山としての第一回個展・越後風景展を開催する。

多摩美術大学日本画科の教授に就任。
作品は煤や石灰などを画面に擦り付け、 力強く轟くような漆黒と、
そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴。
見た目には洋画に近い荒々しく力強い日本画を描く。

横山大観

(よこやま たいかん)
明治元年(1868)11月2日~ 昭和33年(1958)2月26日 89才没。
茨城県に旧水戸藩藩士 酒井捨彦の長男として生まれる。

洋画家 渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。
1888年、母方の縁戚である横山家の養子となる。
1889年、東京美術学校第一期生として入学。
同期生には菱田春草、下村観山などがいる。

美術学校卒業後、京都に移り仏画を研究する。
この頃より「大観」と号する。

1896年、母校である東京美術学校の助教授に就任。
1898年、岡倉天心に従い職を辞し、日本美術院創設に参加。

菱田春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表するも、当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。
今日ではその画風を的確に表しているとされる呼称「朦朧体」も、当初は批判的に使用された言葉であった。

保守的風潮の強い国内での活動に行き詰まりを感じ、菱田春草と共に海外に渡り、コルカタ、ニューヨーク、ボストンで展覧会を開き、高い評価を得る。
その後ヨーロッパに渡り、ここでも高い評価を受ける。
欧米での高評価を受けて日本国内でもその画風が評価される。

近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立。

1958年死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。

文展審査員
帝室技芸員帝国美術院会員
文化功労者
第1回文化勲章受章

鑑定人・鑑定機関

公益財団法人 横山大観記念館
〒110-0008 東京都台東区池之端1-4-24
Tel:03-3821-1017 鑑定担当

横尾芳月

横尾芳月(よこお ほうげつ、1899年(明治32)~1990年(平成2))
福岡県出身。本名は徳次郎。

はじめ、郷里の四条派画家西村草文に、画のほどきを受ける。
その後、1917年に上京して、本格的に池田輝方の下で修行を重ね、帝展などに出品する。
また、大和絵の技法を鶯谷龍岬に、輝方の没後は、深水にそれぞれ師事して
浮世絵と大和絵の技法を交えて、清楚さと気品が漂う美人画を展開した。

印名は「芳月」など