荒木寛快(あらき かんかい、1789年(寛政元)~1860年(万延元))
江戸出身。本名は舜、通称は弥次右衛門。字は学公、号は寛快、達庵、蓬生。
当時の風俗美人画を得意とし名を上げた。
大西圭斎(けいさい)、渡辺崋山(かざん)、桜間青涯(さくらませいがい)らと親交があった。
門下には実子荒木寛一、養嗣子の荒木寛畝がおり、のちの荒木派を創始した。
安政7年1月9日死去。76歳。
印名は「寛快」 「學公」(「学公」) など
荒木寛快(あらき かんかい、1789年(寛政元)~1860年(万延元))
江戸出身。本名は舜、通称は弥次右衛門。字は学公、号は寛快、達庵、蓬生。
当時の風俗美人画を得意とし名を上げた。
大西圭斎(けいさい)、渡辺崋山(かざん)、桜間青涯(さくらませいがい)らと親交があった。
門下には実子荒木寛一、養嗣子の荒木寛畝がおり、のちの荒木派を創始した。
安政7年1月9日死去。76歳。
印名は「寛快」 「學公」(「学公」) など
荒井孝(あらい たかし、1938年(昭和13)~(現在))
栃木県出身。
1969年東京芸大大学院を終了。
卒業後は院展を中心に活躍。76年に院展奨励賞を受賞。
以降、紺綬褒章、足利市民文化賞、栃木県文化奨励賞、文部大臣教育功労賞、
院展奨励賞、院展受賞作家選抜展(初音会賞)、院展入選多数、春の院展入選多数の賞を受賞。
院展の次代の旗手として活躍中。
洗練された画風で氏の色彩感覚溢れる草花図などが得意。
印名は「孝」「孝印」など
新井勝利(あらい しょうり、1895年(明治28)~1972年(昭和47))
東京都出身。
梶田半古に入門、次いで安田靭彦に師事。
院展にて活躍していたが、戦時中は従軍画家として戦地に同行する。
戦後からは画業に専念して古典文学や歴史画などに秀作を残す。
院展同人・評議員、多摩美術大学名誉教授
印名は「勝利」 「勝」 「可豆刀志」 「加都利」 など
荒井寛方(あらい かんぽう、1878年(明治11)~1945年(昭和20))
栃木県出身。本名は寛十郎、号は寛方。
1897年、浮世絵師水野年方に入門。
1899年、絵画共進会春展、秋展に於いて連続二等褒章を受賞。
1914年、横山大観、下村観山らが日本美術院を再興し寛方も同院院友に推挙される。
(翌年には同人に推挙)以降同院を中心に活躍。
1925年、両陛下銀婚式奉賀の「日本風俗絵巻の内の台湾風俗」制作。
1927年、明治神宮絵画館壁画制作を任命される。
鏑木清方、池田輝方、大野静方らと共に年方門下四天王の一人と称された。
作品は師の画風を継承した武者絵、歴史風俗・人物画に高い描写力を示す。
印名は「寛方」 「寛方之印」 など
天野方壷(あまの ほうこ、1828年(文政11)~1894年(明治26))
(現愛媛県)伊予国和気郡三津浜出身。本名は天野 橘
はじめ森田樵眠に師事、その後京都にて、中林竹洞や貫名海屋、日根対山に学び、
さらには江戸で椿椿山の教えも受け、内国絵画共進会などで活躍。
また明治期には、京都府画学校の教諭として後進の指導に尽力。
幕末~明治期を代表する文人画家の一人。
印名は「方壷」 「方壷書画」 「白雲居」 など
阿部春峰(あべ しゅんほう、1877年(明治10)~1956年(昭和31))
福岡県出身。本名は清太郎。
京都に出て菊池芳文に師事。
その後、1907年に文展初入選となり、翌08年には3等賞、09年は褒章を受章。
その後も文展、帝展にて出品・入選を繰り返す。
1927年には帝展審査員を勤めるなど、戦前の京都画壇を代表する画家として活躍した。
印名は「寛明」 「五牛菴」(「五牛庵」)「五牛盦主」(「五牛庵主」)
「春峰」(「春峯」) 「士淑」 「喜春」 「阿部清印」 「蓋巒荘」 「有哉子」 「蜨〃子」 「子榮」(「子栄」) など
穴山勝堂(あなやま しょうどう、1890年(明治23)~1971(昭和46))
山梨県出身。本名は義平(ぎへい)、号は勝堂。
東京美術学校在学中は洋画を学ぶ。
松岡映丘に師事。
1931年、第12回帝展で「夕映えの松」が初出品で特選。宮内省買い上げとなる。
第14回帝展でも再び特選に選ばれている。
野田九浦、川崎子虎、望月春江らと共に、昭和13年に日本画院を創立。
戦後は、山梨に戻り、山梨美術協会設立会員として活躍、
1968年、県文化功労者表彰、1970年、勲五等瑞宝章を受章した。
松と富士を得意とし、生涯にわたり描き続ける。
印名は「義」 「義平」 「勝堂」 など
跡見花蹊(あとみ かけい、1840年(天保11)~1926年(昭和元))
摂津国(大阪)出身。本名は竜野。号は木花、不言、西成、他
跡見重敬の次女として生まれる。
初め、応立・来章について、円山派の画風を研究するが、その後、日根対山に師事し南画を学ぶ。
明治5年に明治天皇御前揮毫する。
その後8年には跡見女学校を建設し、教育に力を注ぐ。
昭和元年1月10日没85歳。
印名は「跡見瀧印」 「蘭田」 「華蹊畫画」 「跡見之印」 「臣謙相印」 など
東 東洋(あずま とうよう、1755年(宝暦5)~1839年(天保10))
仙台石越(宮城県)出身。号は玉河、玉峩、東洋、白鹿園
当初は父岩渕元方に画を学び、後に江戸で狩野梅笑に入門。
京都、金沢、長崎などを巡遊後、京都にて定住。
円山応挙、松村呉春などと親交し、四条派、円山派の画技を習得。
東山新書画展に出品を重ねるなどほか仁和寺の障壁画を手掛けた。
また故郷仙台の藩画員にえらばれ、仙台城二の丸や藩校養賢堂の障壁画制作を任されるなど活躍。
小池曲江・菅井梅関・菊田伊洲とあわせて呼称される仙台四代画家の一人。
印名は「東洋」 「東洋之印」 「法眼」 「白鹿」 など
足利紫山 (あしかが しざん、安政6年(1859)〜昭和34年(1959)、100才没)
尾張国一之宮村(愛知県一宮市)に生まれる。 本名は野々垣重太郎。
臨済宗の僧。方広寺派管長。
慶応2年、7歳で静岡県清水市の清見寺で得度する。
7歳で静岡県清水市の清見寺で得度する。
臨済宗総黌で今北洪川に師事。
儒学者安井息軒に漢学を学ぶ。
明治24年大分市の萬寿寺の副住職となり、3年後には住職に就任。
この時、姓を足利に改め、僧名を紫山と変した。
大正15年、萬寿寺住職を退任し、方広寺派管長に就任。
昭和16年に臨済宗が連合した際には、初代臨済宗管長となった。
筆跡は枯淡のうちに雅致に富み、孤高の風格を表わしている。