尾竹竹坡

尾竹竹坡(おだけ ちくは、1878年(明治11)~1936年(昭和11))
新潟県出身。本名は染吉

兄、尾竹越堂、弟、尾竹国観共に画家で、尾竹三兄弟と呼ばれる。
はじめ、1882年4歳の頃より、地元の南宋画家笹田雲石に学ぶ。
竹坡の号を受ける。
91年には富山に移って、兄越堂と共に売薬版画の下絵や新聞挿絵の仕事に従業。
95年、上京して川端玉章の門下となって、本格的に日本画を師事。
また、弟(国観)の師でもあった小堀鞆音、梶田半古から大和絵の技法を学んでいる。

日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会等で、受賞を重ねるなど活躍を示す。
1906年には石井林響・池上秀畝らと大同絵画会を設立。
07年、文展開設に際して結成された国画玉成会同人となる。
08年、1回展において会長岡倉天心と対立して同会を退会。
以後は文展、帝展に出品、入選を重ね、10年第4回文展2等賞などを受賞。
昭和11年6月2日58歳で没する。

印名は「尾竹」 「竹坡」 「尾竹染吉」 など

奥村政信

奥村政信(おくむら まさのぶ、1686年(貞享3)~1764年(明和元年))
江戸出身。本名は親妙。通称は源八・源六

鳥居清信に浮世絵を学び、更に独自に研究を進めて墨摺絵、丹絵、漆絵などのオリジナル技法の
創始、遠近法を用いて、新たな趣向の見立画を多く残す。
後進の浮世絵師に多大な影響を与えた絵師として知られる。
錦絵、肉筆画ともに優れた作品を残す。版元も自営。

肉筆画では大和絵などの諸派の技法を取り入れ「歌舞伎図屏風」など
多くの人々の表情を豊かに書き上げている。

印名「政信」 「奥邨」(「奥村」) など

岡文濤

岡文濤(おか ぶんとう、1875年(明治9)~1943年(昭和18))
京都府与謝野郡出身。京都市立美術工芸学校卒

京都市立美術工芸学校絵画科卒業後は、山元春挙に師事。
1911年、第5回文展にて「杉垣」が初入選。
以来、文展、帝展など官展作家として活躍を示した。

本来は花鳥画を得意としたが、1914年第8回文展の「梅雨の頃」では、雨中の田植え仕事をモチーフに、
また、その翌年には朝鮮風俗を題材にした「スリナビ」などを発表しており
多範囲にわたって画題を求め、晩年には文人画風の南画も取り入れた。

印名は「文濤」「岡濤」「清中人」「長主楽園主人」など

岡田米山人

岡田米山人(おかだ べいさんじん、1744年(延享元)~1820年(文政3))
大坂の人。本名は國(国)、通称は彦兵衛

初め米穀商を営んでいたので、米山人と号す。
その後、伊賀藤堂藩に仕え、絵師となる。

作品は、南画調を基本とし、大胆な筆使いを用いた迫力ある山水画などを得意とした。
また、浦上玉堂や田能村竹田等ともよく交友した。
子に岡田半江がいる。

「秋山蕭寺図」が重美指定となっている。

印名は「士彦」「田國之印」(「田国之印」)「米山人」「寛宏」など

岡田半江

岡田半江(おかだ はんこ、1782年(天明2)~1846(弘化3))
大阪出身。
本名は粛。号は半江、小米、無声、自適、寒山、寒墨江老樵山寺外史、寒山寺野叟俗称、独松楼など

画を父岡田米山人に学ぶ。
また、独自に南宋画の研鑽を積んで画技を修得。
1809年、父の後を継いで伊勢藤堂藩に絵師として出仕。
翌年、父との合作安積家障壁画の制作に取り組み活躍を示すが、その後大阪に戻り
父の没後は大阪画壇の中心的な画家としての地位を確立、
南画山水、花弁など緻密な描写を得意とした。
また、浦上春琴など当時の一流文人・画家らと交流を深め詩文にも秀で、
自らの作品に賛を付したものをよく残している。

代表作に「春霞起鴉図(自賛)」(重文指定)

印名は「半江」 「田粛」 「田粛之印」 「小米虫」 など

小倉遊亀

小倉 遊亀(おぐら ゆき、明治28年(1895)3月1日~平成12年(2000)7月23日 105才没)
滋賀県大津市丸屋町に生まれる。

女子高で国文学を教えるかたわら、1920年より安田靫彦に師事。
1926年に「胡瓜」が院展に入選。以後1998年に「椿三題」を出品するまで連続入選。

人物や静物などを題材とし、現代的叙情と古典的香気な画風。
奈良女子大学の講堂の緞帳は、小倉遊亀の「爛漫」が原画である。

日本美術院、文化功労者、文化勲章を受章
日本美術院理事長(1990から1996)

尾形乾山

尾形 乾山(おがた けんざん、 寛文3年(1663年)~寛保3年(1743年7月22日) 81才没)
京都の呉服商、雁金屋の三男として生まれる。六歳年上の兄は尾形光琳である。

乾山は父の莫大な遺産が手に入っても、内省的で書物を愛し隠遁を好み、
霊海・逃禅などと号して地味な生活を送った。
1689年、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んだ。
野々村仁清から本格的に陶芸を学ぶ。

京の北西・鳴滝に窯を開く。
北西(乾)の方角あたることから、「乾山」と号した。
江戸時代の絵師、陶工。

乾山の名は代々受け継がれていった。6代乾山(1851-1923年)はバーナード・リーチの師。

尾形光琳

尾形 光琳(おがた こうりん、万治元年(1658年)~享保元年(1716年7月20日) 59才没)
京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれた。弟は尾形乾山。

大画面の装飾的な屏風絵から、水墨画まで作風は多彩だが、
どの作品にも都会的センスとデザイン感覚があふれている。
弟の乾山との合作による陶器の絵付け、手描き小袖の絵付け、漆工芸品のデザインに至るまで、
幅広くその才能を発揮している。

後世「琳派」と呼ばれる。

代表作に、 燕子花図 六曲屏風、紅白梅図 六曲屏風など。

奥村土牛

奥村 土牛(おくむら とぎゅう、明治22年(1889)2月18日~平成2年(1990)9月25日 101才没)
東京市京橋区南鞘町(現東京都中央区京橋一丁目)に生まれる。

16歳で小林古径に日本画を師事。
号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩から引用してつけられた。

刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、
非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。
現代日本画壇の最高峰に位置した代表的な日本画家の一人である。

日本美術院同人、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)日本画科教授
東京美術学校(現東京芸術大学)講師、帝国芸術院会員、文化勲章受章
日本美術院理事長、東京都名誉都民

長野県に奥村土牛記念美術館がある。