池田桂仙 (いけだけいせん 昭和6年(1931)生まれ 69才没) 三重県に生れる。南画家の池田雲樵の子。名は政昌、通称は勝次郎。
父に指導を受け、明治7年父とともに京都に移住。京都府画学校に入学。
大正6年第11回文展で特選。
大正15年第1回聖徳太子奉賛美術展に「夏渓煙雨」「寒山行旅」を発表する。
日本自由画壇、日本南画院の重鎮。
池田桂仙 (いけだけいせん 昭和6年(1931)生まれ 69才没) 三重県に生れる。南画家の池田雲樵の子。名は政昌、通称は勝次郎。
父に指導を受け、明治7年父とともに京都に移住。京都府画学校に入学。
大正6年第11回文展で特選。
大正15年第1回聖徳太子奉賛美術展に「夏渓煙雨」「寒山行旅」を発表する。
日本自由画壇、日本南画院の重鎮。
(いけがみ しゅうほ、1874-1944年)
長野県上伊那郡高遠町に生れる。
1889年、日本美術協会の幹部、荒木寛畝の門下となる。
1894年、日本美術協会展で二等賞受賞。寛畝流の南北合派の作風を基礎にした、
華麗な花鳥画や幽遠な山水画を得意とした。
1907年、文展開設に際して審査・運営方針に異議をとなえ、正派同志会を結成、 その評議員となる。
翌年の第2回文展から参加し、以後官展内の旧派を代表する日本画家として出品を続けた。
寛畝門下の読画会展を荒木十畝とともに主導するかたわら、自ら伝神洞画塾を主宰。
1944年、死去。
東美鑑定評価機構
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生田花朝女(いくた かちょじょ、1889年(明治22)~1978年(昭和53))
大阪府出身。本名は生田稔(みのり)。号は花朝のち花朝女
父に明治~昭和の国学者生田南水を持ち、父から俳句。
また北野恒富、菅楯彦といった大阪画壇のトップに師事して日本画を学ぶ。
恒富の画塾白耀社に属して、同社展や帝展、新文展、戦後からは日展にて活躍。
当初は菅楯彦の画風を継承して、何気ない山村風景や自然風景など大和絵風に展開していたが、
白耀社に属すようになって、美人画や地元大阪の天神祭を題材にした作品も手掛けるようになる。
また俳句作品も多数残している。
印名は「花朝」(「華朝」) 「花」 「稔」 「美乃里」 など
猪飼嘯谷(いかい しょうこく、1881年(明治14)~1939年(昭和14))
京都府出身。本名は敬眞(敬真) 、号は嘯谷。
谷口香嶠に師事して四条派の画法を学ぶ。
京都美術協会展、文展などで活躍する。
1917年、母校京都市立絵画専門学校の教授として後進にも指導。
1919年、井口華邨、池田桂仙らと共に日本自由画壇の設立に参加。
花鳥や風景画なども描くが特に時代考察や時代衣装をよく研究して
歴史風俗画や人物画の名手として知られている。
印名は「嘯谷」「嘯谷之印」「嘯谷画印」「敬眞」(「敬真」)「敬眞之印」(「敬真之印」)「猪飼敬真」など
安藤広重(あんどう ひろしげ、1798年(寛政9)~1857年(安政5))
江戸出身、本名は徳太郎
江戸の町火消の安藤源右衛門の子として生まれる。
15歳のころに歌川豊国の門に入ろうとするが、門生多数の理由で断られ、
同じ歌川派の歌川豊広に入門、以降絵師と家業の火消しを兼業する。
1823年ごろより画に専念、始めは一幽斎廣重と号して花鳥画を多く描いていたが、
1828年頃、師豊広の没後頃より一立齋の号を使い始め風景画を多く描く。
後に欧米でその大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高く
「ヒロシゲブルー」と称される。
また、代表作のひとつ「東海道五十三次」では遠近法が用いられ、
風や雨を感じさせる立体的な描写などの技術の高さもあるが、
当時の版画技術の向上で庶民から絶大な人気を得た。
印名は「廣重」(「広重」)「東都弐家」「安藤之印」など
アラン・ウエスト(Allan West, 1962年-)
1962年 アメリカ、ワシントンDC生まれ
1978年 コーコラン美術館付属美術学校入学
1981年 カーネギーメロン大学芸術学部絵画科入学
1982年 初来日
1985年 つくば万博にて通訳、展示案内
1987年 カーネギーメロン大学学部卒業
1989年 東京芸術大学日本画科 加山又造研究室に研究生として入室
1990年 東京藝術大学日本画科入学 (加山又造研究室)
1992年 同大学大学院修士課程卒業
カーネギーメロン大学在学中に、偶然ボランティアとして日本に派遣され、日本画と出会う。以後東京藝術大学院日本画科修士課程を修了し、画家として活動する。スミソニアン美術館など世界各地で個展をひらく。日本では谷中と熱海にアトリエを構える。
荒木十畝(あらき じゅっぽ、1872-1944)
長崎県大村の士族朝長家に生れる。本名、梯二郎。
1892年、上京して荒木寛畝の門に入り、琴湖と号す。
荒木家は江戸時代以来、南北合派を基とした花鳥画の名流。
翌年、荒木家の養嗣子となり、画号を十畝と改める。日本美術協会展で受賞を重ねる。
1895年、日本美術協会会員となる。
1897年、日本画会を創立、主任幹事をつとめる。
1905年、荒木寛畝門下の画塾を読画会として組織、副会長となる。
1907年、文展開催にあたり審査員選考を不満として正派同志会を結成。
翌年より文展審査員となり、以後官展では旧派の中心的存在となる。
1929年、第1回個展を東京銀座の天金隣「銀座美術園」で開催。
1937年、帝国芸術院会員となる。『東洋画論』(1942年、小学館)などの著作がある。
荒木寛畝(あらき かんぼ、1831年(天保2)~1915年(大正4))
江戸出身。
8才の時に荒木寛快に入門しのち22歳で養子となる。
1872、ウィーン万国博に「菊花図」を出品、褒章を受賞。
明治20年皇居造営に際し杉戸絵を描きその後も多くの御用画に貢献する。
1900年、帝室技芸員を拝命。
画壇では日本美術協会の主軸作家として影響力を発揮し、
文展開設後も審査員として旧派の求心的存在となった。
主に、色彩花鳥図を得意とする。
荒木寛友(あらき かんゆう、1849年(嘉永2)~1920年(大正9))
江戸出身。本名は鐸。号は寛友。
南画家荒木寛一の子として生まれる。
父に学んだ後、更に山本琴谷に師事し、南北合派の画を研究する。
江戸後期には福岡の秋月藩黒田家に出仕、明治維新後は太政官などに出仕するなど
新政府に仕えたが、明治10年に公職を辞して画業に専念。
以降、日本南画協会、日本美術協会などに参加、そのほか禁裏御所襖絵揮毛など。
門下には川瀬巴水などを輩出。
印名は「木鐸」 「酣古」 「寛友」 「寛友画印」 「子天氏」 「荒木鐸印」 「開雲住山」 など