近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治17年(1884)~昭和37年(1962) 78才没)
山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。明治初期の実業家・教育者である近藤喜則は祖父にあたる。
1904年、洋画家和田英作の白馬会研究所に所属し、東京美術学校西洋画科へ入学。
同級生の藤田嗣治らと共に新しい時代の絵画を吸収する。卒業後、白馬会や文展へ出展し入選。
1915年読売新聞社に入社。漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当する。
のちに時事新報社に移り、菊池寛や芥川龍之介らと親交。
1922年、同級生の藤田嗣治を頼りヨーロッパ各国を旅行する。
半年間のフランス滞在などで西洋文化に触れる。
また朝鮮・中国への旅行を通して東洋文化にも触れ、その違いを学ぶ。
近藤は、この時期に日本人や東洋人としての意識を強めていたと指摘されている。
洋画の光線表現を水墨画に取り入れ、独自の技法を確立。
画風は大正から昭和初期にかけて、墨の濃淡による面的表現から描線による線的表現へと変遷している。