曾我直庵

曾我直庵(そが ちょくあん)
本名は心誉

明から来朝した秀文(越前朝倉氏の家臣曽我氏を継ぐ)の弟子とされる。
式部蛇足に画を学び、豪放な筆使いで対象物を抽象化させた秀文画を修得。
その後、独自に元・明の画風を研鑽したとされているが、他説では曾我紹仙の子である
と言う説もある(式部蛇足の子が曾我紹仙であるとも言われる)。

越前朝倉氏が滅びると堺に移住して、曾我派を立て直した画家と言われているが、
正確な歴はあまり多くない。

代表作に「涅槃図(重文指定)」、「鷹之図屏風(桃山時代)」など。

印名は「直庵」「心譽」(「心誉」)など

曾我紹仙

曾我紹仙(そが しょうせん、1521年(大永)~1555年(天文頃(詳細不明)))
飛騨(岐阜県)出身。本名は兵部 、玄仙、景種

北陸越前国飛騨の朝倉氏に仕えた秀文の弟子式部蛇足(曾我宗丈)の子といわれるのが、
一般的な説であるが正確な出自は不明。
秀文様式の豪放な筆使いを修得する一方で、南宋時代の画家牧渓の画を加味して
後年の曾我派の基礎を築いた画家と言われており、子の曾我直庵に受け継がれていると推測されている。

印名は「紹仙」など

曾我蕭白

曾我蕭白(そが しょうはく、1730年(享保15)~1782年(天明元))
京都出身。

正確な略歴などは解明されていないが、京都の商家の出身との説が有力で
初名を三浦暉雄と称しており、画風から、当時の狩野系画家高田敬輔が師であったとされている。

又、独自に中国の古画を研究、極彩色、墨画共に優れた花鳥、山水、人物画を残し、
顔貌描写にも優れ、大胆な筆使いの中に緻密な描線を混在させて画風を確立。

代表作に「寒山拾得図(重文指定)」「久米山人図屏風」「群仙図屏風」などを残している。

印名は「曾我氏」 「曾我暉雄」 「曾我師龍」 「師龍」 「蕭白」 「祐邨」 「鬼甲」 「虎道」 「蛇足軒蕭白」
「輝一」 「暉」 「鬼神斎」 「如鬼」 「鸞山」 「明雄」 など

千住博

千住博(せんじゅひろし、昭和33年(1958)~)
東京都生まれ。ニューヨーク在住。名前の「ひろし」は正しくは右上の点のない「十専」という表記である。

慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部・慶應義塾高等学校を経て、2浪後、1982年、東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。1987年、同大学院博士課程修了。
1994年、第7回MOA岡田茂吉賞、絵画部門優秀賞受賞。
創立100周年のヴェネツィア・ビエンナーレにおいて27年ぶりに日本人として優秀賞を受賞。
2000年、河北倫明賞受賞。
2002年大徳寺聚光院別院襖絵完成。
2006年フィラデルフィア松風荘襖絵(ウォーターフォールシリーズ)完成。

現在、京都造形芸術大学学長・同国際芸術研究センター所長、同付属康耀堂美術館館長。
日本画の存在やその技法を世界に認知させ、講演や著述等世界的視野で幅広い活動を行っている。

弟は作曲家の千住明、妹はヴァイオリニストの千住真理子。父は千住鎮雄。

公式ホームページ Hiroshi Senju

雪村周継

雪村周継(せっそん しゅうけい、1504年(永正元)~(没年不詳))

室町期後期の画僧。
生まれは常陸国太田(現在の茨城県)で佐竹氏の出身と言われている。
禅宗に入り僧籍となり、その後、関東各地を周遊して作画、また、はじめ周文に私淑したのち
雪舟に私淑したため、雪村周継と称し福禄寿や山水画など雪舟の模写かと言われるほどの
腕を持ったとされる。

晩年は両師の画風を離れ宋・元の名家牧渓の筆致を追求。
また、雪村は常に作品には唐紙(通称雪村紙)を用いて製作したといわれる。

代表作に「松鷹図双幅(重文指定)」「呂洞賓図」。

印名は「雪村」 「周継」 「厳水」 「東山道人」 「水孚」 「字子誠」 など

雪舟等楊

雪舟等楊(せっしゅう とうよう、1420年(応永27)~1506年(永正3))
備中国(岡山県)出身

幼少時より仏門に入り、10歳の頃に京都相国寺に参禅、禅の修業の傍らで周文に画を学ぶ。
また、遣明使に随行して明国(中国)に渡り、各寺を参禅しながら水墨画の研鑽に努める。
帰国後は、周防国(山口県)の画室雲谷庵に居している。

代表作「天橋立図」、「四季山水図巻(山水長巻)」、「秋冬山水図」、「破竹山水図」、「山水図」、
「慧可断臂図」の6点が真作として、国宝に指定されているが、「伝・雪舟」とされる作品も多く
真贋の判別には意見が分かれている。
また、当所、拙宗等楊とも名乗っていたともされているが、全くの別人ともされている。
室町期水墨画を代表する人物であるが、現在でも国宝でありながら推測中心の
まだまだ確定されていない作家でもある。

関主税

関主税(せき ちから、1919年(大正8)~2000年(平成12))
千葉県出身。東京美術学校卒

東美卒業後は、1948年に結城素明、中村岳陵の指導を受け、日展を中心に制作。
以降、入選を続け、63年日展会員に推挙、68年に日展評議員、また日展内閣総理大臣賞を受賞。
86年、前年の日展出品作で日本芸術院賞を受賞、92年には同芸術院会員に就任している。

風景画を中心に制作し、特に、山水、花鳥作品の描写力、色彩感覚、構図のとり方などに優れ
関東日展の代表的な作家の一人として活躍した。

印名は「主」「主税」など

瀬川艶久

瀬川艶久(せがわ えんきゅう、1902 ( 明治35 )~)
東京都出身。

京都で西山翠嶂に師事して、官展に出品を重ねる。
戦後は日展に出品。

晩年は名古屋に移り、地道に画家活動を続けた。

作品は時代風俗の美人画、立雛図など端整な作品を多く残す。

印名は「瀬川艶久」など

住吉弘貫

住吉弘貫(すみよし ひろつら、1793年(寛政5)~1863年(文久3))
江戸出身。本名は広定のち弘定
住吉家7代目幕府御用絵師

住吉廣行の次男として生まれ、兄には住吉広尚を持つ。
兄の後を次いで住吉家7代の当主となり、幕府に出仕。

土佐派の画風をよく研究し、住吉家代々の中でも一,二を争うほどの名手とされ、
その技量が認められて、旗本格を与えられている。

印名は「藤原弘貫」 「弘貫」 「定國画道」(「定国画道」) 「三子」 「敬徳」 「藤廻屋」
「静江」 「戯圖」(「戯図」) 「土佐廣定」(「土佐広定」) 「廣定」(「広定」) など

住吉廣道

住吉廣道(すみよし ひろみち、1599年(慶長4)~1670年(寛文10))
堺(大阪府堺市)出身、本名は光陳(幼名)、広通

はじめ土佐光陳と名乗った土佐光吉の門人であったが、1661年に剃髪して如慶の号を賜り、
さらに後西天皇の命で、鎌倉中期の画家住吉慶恩の画を復興するために姓を住吉と改め、
のちに法眼を叙任。

穏やかで細緻な土佐派の画風を踏襲しながらも親しみやすい人物描写や漢画的な表現を加えた画風を
特徴として、子の具慶(住吉廣澄)が後を次いで住吉派を確固なものとした。

住吉家初代

印名は「土佐」「土佐廣道」(「土佐広道」)「廣道」(「広道」)「和畫士住吉」(「和画士住吉」)「住吉」「法橋」など