鈴木百年

鈴木百年 (すずきひゃくねん 文政8年(1825)~明治24年(1891) 64才没)
京都生まれ。名は世寿。字は子孝。別号に大椿翁。

初め北宗画を学び後四条派の画風をよくした。岸連山に師事する。
山水画を得意とし、鈴木派と呼ばれる流派を生み出した。
鈴木松年は子供。

鈴木竹柏

鈴木竹柏(すずき ちくはく、1919年(大正7)~(現在))
神奈川県出身。本名は賢吉、号は竹柏

地元の中学を卒業後は、中村岳陵の蒼野社に入塾、翌年の1937年より、内弟子扱いとなる。
38年、第25回院展にて初入選。以降同展や新文展などに出品していた。

戦後、47年より師、岳陵が日展に移ったのと共に、日展に出品を重ねる。
56、58年に特選と白寿賞、62年に菊花賞を受け、81年に文部大臣賞を受賞。
また、88年に前年の日展出品作、「気」により日本芸術院賞を受賞。
91年、日本芸術院会員に就任。

当初、院展に出品していた頃は、主に花鳥を描いていたが、
日展に出品しだす頃より、風景画を多く制作する。
特に、三浦半島の風景画や、奈良の大和路の風景画を主題にした物を多く残す。
さらに近年では、創造的な大自然をテーマに空気感、温度、澱清感など
目に見えない物の情景を黒系の色彩を用いて、その濃淡や塗り重ねにより表現し
重厚な作品に仕上げている。

2018年、日本橋高島屋にて百寿展を開催

印名は「竹」「竹伯」など

鈴木松年

鈴木松年(すずき しょうねん、1848年(嘉永元年)~1918年(大正7))
京都出身。円山派。

父、百年に学び、絵画共進会などで活躍。
巴里博覧会などに出品し、国内外で評価される。

主に人物、花鳥画を得意とし、大胆かつ豪放な筆使いであるが、
高度な画技によって、それによる嫌味さをカバーしている。

その他、京都府画学校の講師を勤め、退職後松年塾を開くなど後進の指導にも尽力し、
当時の京都画壇の重鎮的存在であった。
門下には上村松園など。

印名は「世賢」 「鈴木世賢」 「百僊」(「百仙」) 「松年」 「松年僊史」(「松年仙史」)
「梥年」 「源僊」 「老龍館主」 「老龍館松年」 「天龍叟鈴木賢松年印」 「芭蕉雨梅花雪」
「東錦楼」 「一日席画千枚之一」 「楊柳風悟桐月」 「粟畏雨雙霜擢」
「菅公千年祭梅松千畫一鈴木世賢筆」 など

鈴木春信

鈴木春信(すずき はるのぶ、1725年(享保10)~1770年(明和7))
江戸の人。本名は穂積春信。
錦絵の創始者。

初め、西川祐信に大和絵を学んだが、後に独自の研究を重ね、美人画専門の絵師となる。
さらに当時の文化人の大久保忠舒より、年末年始に配布する絵暦(現在のカレンダー)の製作を依頼され、
当時同じ町内に住んでいた平賀源内や刷物師、彫物師などと研究。
何色でも塗り重ねられる多色摺版画(後の錦絵)を完成させ、それまでの印刷の技術革新を起こした。

印名は「春信」ほか

杉山寧

杉山寧(すぎやま やすし、1909年(明治42)~1993年(平成5))
東京都浅草出身。

東京美術学校を卒業後、松岡映丘に師事。
山本丘人、高山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成する。
帝展、院展、日展などで活躍し、入賞、入選を繰り返す。
1934年、第一回日独交換留学生に選ばれ、ベルリン大学に学ぶ。
1947年、日展特選、50年日展審査員。56年日本芸術院賞受賞、58年日展評議員。
70年日本芸術院会員。74年文化功労者、文化勲章受章

1958年6月、長女瑤子が三島由紀夫と結婚。三島は瑤子を選んだ理由について
「芸術家の娘だから、芸術家に対して何ら幻想を抱いていないこと」を挙げた。

日展常務理事。74年日展理事長。76年西ドイツより大功労十字勲章受章。
77年東京国立近代美術館評議員。1950年代から1986年12月号まで『文藝春秋』の表紙画を描いた。

エジプトを中心に外遊し、作品は永遠性の憧景を秘めたイメージを構想。
現代を代表する日本画家の一人。

印名は「杉」 「寧」 「寧印」 など

菅楯彦

菅楯彦 (すがたてひこ 明治11年(1878)~昭和38年(1963) 85才没)
鳥取市生まれ。名は藤太郎。別号に盛虎、静湖。父は日本画家菅盛南。

幼時に両親とともに大阪へ移住。
父が倒れ、11歳で家業を継ぎ、絵で生計を立てた。絵は独学で父以外に師事することはなかった。

写生体を基調に独自の様式を形成。晩年は昔日の浪速風俗を主題に連作し、高い評価を得た。
1950年、日展の委嘱を受け、亡くなるまで出品した。
芸術院恩賜賞、大阪市名誉市民章、倉吉市名誉市民章。

沈南蘋

沈南蘋(ちん なんぴん、1682年(天和2)~1760年(宝暦2))
浙江省呉興(中国)出身

1731年に長崎に来航し、約二年間滞在。
その間に熊代熊斐、宋紫石などをはじめとして、多くの日本人画家に指導し、
写生性がつよい彩色花鳥画を長崎を中心に広める。
当時狩野派が中心とされていた画風に「南蘋派」として新風を興し、
後の円山応挙、渡辺崋山など花鳥画家に大きな影響を与えた。

印名は「南蘋」 「沈詮之印」 など

真道黎明

真道黎明(しんどう れいめい、1897年(明治30)~1978年(昭和53))
熊本県出身。本名は重彦(しげひこ)。太平洋洋画研究所卒

当初は、洋画を志し太平洋洋画研究所などで学んでいた。
1915年より日本美術院研究会員となり日本画に転向する。
堅山南風、横山大観、安田靫彦、小林古径らに指導を受ける。
翌年、院展初入選。21年に同人に推挙。
以降、院展に出品を続け、晩年の1975年に院展内閣総理大臣賞を受賞。

独自に中国、朝鮮に度々外遊して東洋美術の造詣を深め、
神秘的な風景画の画風を確立し、米国や欧州でも個展を開くなど国際的にも評価された。

印名は「黎明」「真」「真道」など

庄田鶴友

庄田鶴友 (しょうだかくゆう 明治12年(1879)~昭和23年(1948) 68才没)
奈良県柳生村生まれ。名は常喜。別号に暁観。

京都市立美術工芸学校絵画科卒業する。
山元春擧に師事。第5回内国勧業博覧会で褒状。第1回文展入選。
井口華秋、池田桂仙、上田萬秋、林文塘らと自由な制作を目指して「日本自由画壇」結成。
昭和8年帝展で推薦。京都市立絵画専門学校教授

秋月等観

秋月等観(しゅうげつ とうかん、(室町時代))
薩摩国出身。

室町時代後期の画僧で生没年は不詳。
薩摩国島津氏に仕える高城家の出生であるが、周防国の雪舟についての下で出家、さらに画を学ぶ。
また、渡明歴があり、1492年に明より薩摩に帰国したと資料に残るがその他の詳細は不明。
門下には等碩など。

「花鳥図屏風」(サントリー美術館蔵)が重要美術品指定。

印名は「等観」 「秋月居士」 「秋居士」 「朴也」 「入唐秋月居本」 「日本薩陽釋氏等観」(「日本薩陽釈氏等観」)