長澤廬雪(ながさわ ろせつ、1755年(宝暦5)~1799年(寛政11))
応挙門下十哲の一人。本名は正勝、魚
淀藩士上杉家の子として生まれ京都に出て円山応挙に師事。
寛政の御所造営の際には御涼所上御間を任されて襖絵、障壁画など活躍を示す。
初期の応挙門下の中では群を抜いた存在を示した。
その他にも、南紀を遊歴中に多くの障壁画を手掛け串本無量寺、富田草堂寺をはじめ
多くの寺院に作品を残す。
また、寛政7年には香住大乗寺(通称:応挙寺)の「群猿図」の製作にも従事した。
画風は応挙門下としては一線を画した自由奔放で豪放な独自の画境を若くして確立しており
当時としても異色画家とされていた。一説によると素行の悪さから応挙に破門を言い渡されたと
されているが、正確な事実関係は確認されていなく、応挙に対してあまりに画風が相反していた為に
後世に俗説として流された物とした見解が有力的。
代表作に「官島八景図(重文指定)」「山姥図」「月夜山水図」「唐美人」「竹に犬の子」大乗寺「群猿図」など
印名は「魚」 「長澤魚」 「長魚」 「魚印引居士」 「氷計」 「長澤廬雪」 など