平山郁夫

平山 郁夫(ひらやま いくお、昭和5年(1930)6月15日~)
広島県尾道市瀬戸田町生まれ。

広島市内陸軍兵器補給廠で広島市への原子爆弾投下により被災。
戦後、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。前田青邨に師事する。

東京芸術大学で助手を務めていた昭和34年頃、原爆後遺症で一時は死も覚悟した中、玄奘三蔵(三蔵法師)をテーマとする『仏教伝来』を描きあげ、院展に入選する。以降、平山の作品には仏教をテーマとしたものが多い。

平成元年(1989)、東京藝術大学第6代学長に就任。
その作品価格は存命する画家の中で飛びぬけて高い。

日韓友情年日本側実行委員長、日中友好協会会長、ユネスコ親善大使、
大韓民国修交勲章興仁章受章、新潮社芸術大賞を受賞、文化功労者、文化勲章受章。

作品は滋賀県守山市の佐川美術館、広島県尾道市の平山郁夫美術館などで紹介されています。

平松礼二

平松礼二(ひらまつ れいじ、1941年(昭和16)~(現在))
東京都出身。愛知大学卒業

1960年から川端龍子の青龍社展に出品し、65年には同展奨励賞を受賞。
66年の青龍社解散後、77年に創画会に初出品。
創画会春季賞、同年第4回創画会賞を受賞し、しばらくは同会にて活躍していたが脱会。
その後、個展・グループ展を中心の作品制作に変わる。
その間に、79年中日大賞展大賞、80年セントラル美術館大賞展優秀賞、
88年MOA岡田茂吉賞展絵画部門優秀賞(2000年には大賞を受賞)などを受賞している。

1973年の朝鮮半島取材旅行の際、辛く、険しい「路」の体験を下に実際の「路」、
創造の「路」などを交えながら様々な「路」作品を制作。
当初は、上記のような負のイメージを前面に出し、彩色に関しても黒・紺などの
濃色を基調とした作品が目立っていたが、近年は赤や黄色といった明るい彩色を用いた
「路」作品も制作し、様々な解釈が受け止めることが出来る。
またそのほかにも、花シリーズ、ニューヨークの風景を抽象的に描いた作品なども手掛けている。

印名は「禮」「平」「礼」「礼二印」など

平福穂庵

平福穂庵(ひらふく すいあん、1844年(弘化元)~1890年(明治23))
秋田県出身。

父について画技を修得、その後独学にて画を研究。
1880年、第3回秋田県博覧会にて1等を受賞。
90年には、内国博覧会にて妙技二等賞を受賞し、明治時代に活躍した画家として知られる。

明治時代前半の、日本画の混乱期に近代日本画の方向性を示した先駆者の一人であり、
写生を重んじるその精神は、子の平福百穂に受け継がれていきます。
平福穂庵がつけた中央画壇への道筋を足掛かりに、寺崎広業や平福百穂が
その才能を開花させるのです。

印名は「穂菴」(「穂庵」)「平穂之印」など

平福百穂

平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10)~1933年(昭和8))
秋田県出身。本名は貞蔵。号は百穂。

平福穂庵の子。
川端玉章に師事した後、結城素明らと无声会を創立。
自然主義を提唱。また、結城素明、鏑木清方らと金鈴社を結成し、日本画の発展に貢献した。
主に写生画を得意とし、文展などを中心に活躍。
東京美術学校の教諭として、後進の育成にも尽力。

短歌もよくし、アララギ派の歌人としても活躍。斉藤茂吉などともよく交友した。
代表作に第11回文展特選作「予譲」など。

印名は「百穂」 「平福百穂之印」 など

平井楳仙

平井楳仙(ひらい ばいせん、1889年(明治22)~1969(昭和44))
京都府出身 京都市立美術工芸学校卒

1907年に文展初入選以降、同展に出品し文展褒章、1等賞、2等賞など文展の中心的画家として活躍。
また榊原紫峰、入江波光らと桃花会を結成。
戦後は後援会(楳仙会)を中心に活躍した。

作風は人物、花鳥、山水など緻密な描写に優れた。

印名は「楳僊」(「楳仙」) 「某仙」 「某仙紀」 「平生天一長」 「大仏楳仙」
「比羅君日之象」 「平生无一長」 など

菱田春草

(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7)~1911年(明治44))
長野県下伊那郡出身。本名は三男治。号は晴天、秋江、春草、黄壑、長照。
東京美術学校普通科卒

1889年に上京して、初め狩野派の結城正明に、毛筆の技法を学ぶ。
翌年開校された、東京美術学校に第二期生として入学、在学中は岡倉天心、橋本雅邦に学ぶ。
たちまち頭角を現して、94年本科4学年に進学した際の校友臨時大会では、
下村観山に次ぐ賞牌第二席を獲得。
95年、同校を二期生として主席で卒業。

卒業後は、天心より帝国博物館の古画模写事業を委嘱され、
横山大観、下村観山、本多天城らと共に従業。
96年、第一回日本絵画共進会に出品した「四季山水図」が銅牌を受賞。
これにより、東京美術学校より、講師(後に助教授)として招致を受け、後進の指導に尽力。
98年、東京美術学校騒動により天心、大観、観山らと共に職を辞し、
彼らと共に、日本美術院の創立に参加する。以降は日本絵画共進会展(日本美術院連合展)で
常に高位の受賞を続けた。

1904年、天心、大観、漆芸の六角紫水と共に、西洋美術研究のために渡米。
翌年には、イギリスに渡り、アメリカ各地、およびロンドンで大観との二人展を開催し好評を得る。

帰国後は、色彩こそ感性に訴える近道として、色的没骨を主張。
しかしこの頃、日本美術院が経済的に破綻をきたし、天心の進めもあり、
大観、観山、木村武山らと共に茨城県寒漁村に移住する。
貧困の中で、朦朧体と称される新技法を実践していたが、
この頃の彼らの元には画商の一人も訪れなかったと言われている。

しかし、1907年に文部省美術展覧会(文展)が開催されると天心、大観、観山が審査員に選ばれて
同年の第一会展で「賢首菩薩」を出品、二等賞第三席を受賞。
この時、天心、大観、観山らは二等賞第一席に推し、旧派審査員らは入選にも値しないと
新派と旧派の意見が分かれるが、翌々年に出品した「落葉」では二等第一席を受賞
(この作品は後年に明治を代表する傑作であると評され重要文化財にも指定されている)。
翌年の1910年には、審査員として「黒猫」を出品、翌11年3月に第10回巽画会に「早春」を出品。
しかしこれが絶筆となる。
茨城時代からの持病の肝臓炎から併発した網膜炎により失明、同年9月に没、享年37歳。

印名は「駿走」 「春艸」(「春草」) 「春艸画印」(「春草画印」) など

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713

菱川師宣

菱川師宣(ひしかわ もろのぶ、1618年(元和4)~1694年(元禄7))

浮世絵の創始者。版画の祖。菱川派の祖。
狩野、土佐、長谷川派の画風を研究し、独自の画風を確立し、浮世絵を創始した。
主に絵本の挿絵などを手がけるが、肉筆画もよく書く。

門下に菱川師重・菱川友房・石川流宣・山崎童女・杉村治兵衛。

代表作に「見返美人図」「二美人図」「吉原之躰」

印名は「師宣」「房國」など

東山魁夷

東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908-1999)
横浜市に生まれる。本名新吉。

1911年、父の仕事の関係で3歳の時に神戸西出町へ転居。
1926年、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科へ進学。
1931年、東京美術学校日本画科を卒業。結城素明に師事し、雅号を「魁夷」とする。
1933年、東京美術学校研究科を修了。8月渡欧。
1934年、第1回独交換学生に選ばれ,ベルリン大学哲学科美術史部に入学。
1947年、第3回日展出品作「残照」が特選となり,政府買上げとなる。
1950年、第6回日展に「道」を出品 風景画家として不動の地位を確立。
1956年、日展出品作品「光昏」が第12回芸術院賞を受賞、政府買上げとなる。
1965年、日本芸術院会員に任命される。日展理事に就任。
1968年、皇居新宮殿大壁画「朝明けの潮」を完成。
1969年、第10回毎日芸術大賞を受賞 文化勲章を受章し,文化功労者に選ばれる。
1975年、奈良唐招提寺の壁画第1期として,「山雲」「濤声」を完成。
1976年、ドイツ連邦共和国大統領から功労大十字勲章を贈られる。
1980年、唐招提寺壁画第2期「黄山暁雲」「揚州薫風」「桂林月宵」を完成奉納。
1984年、日展顧問に就任。
1985年、西ドイツの学術・学芸の最高のプール・ル・メリット勲章受賞。
1988年、千葉県市川市の名誉市民に選ばれる。

稗田一穂

稗田一穂(ひえだ かずほ、1920年(大正9)~(現在))
和歌山県出身。東京美術学校卒。

東京美術学校卒業後は、一時大坂市立工芸学校に就職。
1944年、再び上京し、山本 丘人に師事。
48年に、丘人や上村松篁が創造美術会を設立すると、第1回展から出品を続け、
第1回、第2回と創造美術展奨励賞を受賞。
51年、創造美術会と新製作協会が合併を果たすと同時に、新製作協会日本画部に会員として推挙。
同会にて活躍。
74年に、同会日本画部に所属していた秋野不矩、上村松篁、山本丘人を筆頭に
全員が脱退し、新たに創画会を設立。氏も創立会員として参加。
90年には日本芸術院賞恩賜賞を受賞。
現在も同会重鎮作家として精力的に出品を続ける。

印名は「穂」「一穂印」など

速水御舟

速水御舟(はやみ ぎょしゅう、1894-1935)
東京浅草の蒔田家に生まれる。本名栄一。

1908年、松本楓湖の安雅堂画塾に入り、はじめ「禾湖」と号した。
1911年、今村紫紅や小林古径らの紅児会に入会、号を「浩然」と改める。
1913年より原三溪の援助を受け、京都に移住して研鑚を積む。
翌14年より母方の実家速水姓を名乗り、号も「御舟」とした。
同年、日本美術院再興に際して帰京、第1回展に出品。
また、紫紅らと赤曜会を結成。
1916年、紫紅の死によって赤曜会解散。
1917年、日本美術院同人となる。
1919年頃から対象を凝視した細密描写による制作をすすめ、《京の舞妓》や《炎舞》(重文)などの名作を残す。
1929には、琳派やロシア構成主義なども取り入れた《名樹散椿》(重文)を発表し、
翌年のローマ開催日本美術展にこれを出品するとともに渡欧。