橋本独山

橋本独山(はしもと どくざん、1869年(明治2)~1938年(昭和13))
新潟県出身。本名は、松次郎(幼名)、玄義、済宗、(共に法名)

当所は画家を志して、16歳のときに富岡鉄斎に弟子入りした。
後に、天龍寺で得度して仏門に入り天龍寺塔頭鹿王院住職、また相国寺派管長に就任。
退隠後は、鳥取県に南苑寺を開き画・書三昧に余生を過ごす。
画は南画山水が中心。

印名は「獨山」 「南苑」 「南苑亭長」 「大檍」 「風雲」 「大椿」 「對雲閣主」(「対雲閣主」) など

橋本関雪

橋本 関雪(はしもと かんせつ、明治16年(1883)11月10日~昭和20年(1945)2月26日 61才没)
神戸市生まれ。播磨明石藩の漢学者・橋本海関の子。本名は貫一。関雪というのは画号。

竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り、四条派に南画を加味した新南画を大成。
1913年、文展で二等賞、翌年も同じ。1916年と翌年、特選を受賞。帝展審査員も務める。

帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員。

1940年、建仁寺襖絵を製作。
支那古典に精通したことでも知られ、たびたび支那へ渡った。

京都銀閣寺畔の白沙村荘に住み、白沙村人と別号した。
(白沙村荘 橋本関雪記念館電網別館)
『瘋癲老人日記』のモデルとして知られる。

シュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章授与。

橋本雅邦

橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日(1835年8月21日)~明治41年(1908)1月13日 72才没)
東京木挽町生まれ。父は松平周防守の御用絵師 橋本養邦。幼名は千太郎。号は勝園。

5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け、
12歳の時に正式に木挽町絵所の当主である狩野栄信と後継者の狩野雅信に師事する。
この時同日に狩野芳崖も入門しており、生涯の親友となる。
両者は早くに頭角をあらわし、「勝川院の二神足」と称された。

1860年に結婚し、雅邦の号をもらって絵師として独立する。

第一回内国絵画共進会では、《琴棋書画図》が銀印主席を取り、同じく出品した《竹に鳩》が宮内省の御用となっている。
フェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校を開校する。
東美校初代教授(絵画科)の主任を務める。
帝室技芸員制度が発足すると第一次のメンバーに選ばる。
名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
東京美術学校では、下村観山や横山大観、菱田春草、川合玉堂、寺崎広業らを指導する。

橋本永邦

橋本永邦(はしもと えいほう、1886年(明治19)~1944年(昭和19))

東京出身。本名は乾。

橋本雅邦の子として生まれる。
東京美術学校で、寺崎広業・下村観山に師事する。
在学中に文展などに出品し入選。
卒業後は、日本美術院の再興に参加し、院展を中心として活躍する。

画風は、雅邦をよく継承し、品格のある画をよく描いた。
「能」を題材にしたものをよく残す。

印名は「橋本乾印」 「古心斎」 「永邦」 など