山本丘人

(やまもと きゅうじん、明治33年(1900)4月15日~昭和61年(1986)2月10日 85才没)
東京市麻布(現在の東京都港区)に生まれる。本名は正義。

1924年に東京美術学校卒業。その後松岡映丘に師事。

28歳の時、帝展初入選する。30歳の時、号を丘人と定める。
近代洋画をとりいれた新鮮な作風で、海山を主題にした作品に優れている。

東京芸術大学助教授、女子美術専門学校(現女子美術大学)教授に就任、
多数の後進を育てる。

創画会会員、芸術院賞、芸術選奨文部大臣賞受賞、文化勲章受章、文化功労者。

静岡県に、山本丘人記念館がある。

鑑定人・鑑定機関

山本由美子
〒410-1326 静岡県駿東郡小山町用沢1373-1
Tel:0550-78-1400

山村耕花

山村耕花(やまむら こうか、1886年(明治19)~1942年(昭和17))
東京出身。本名は豊成。

第1回文展「茶毘」で入選、明治43年第4回文展で「大宮人」が褒状になる。
大正5年には院展同人となった。
以後、風俗人物画に新境地を開き活躍する。
また版画、舞台美術も手がけ、特に役者似顔絵を得意とした。

代表作に「八朔」「お杉・お玉」など。
昭和17年1月25日56歳で没す。

印名は「豊成」 「耕華」 「家萬夢楽」 など

山名貫義

山名貫義(やまな つらよし、1836年(天保7)~1902年(明治35))
江戸出身。本名は大助

和歌山藩絵師の山名広政の子として生まれる。住吉派絵師住吉弘貫に師事。
大和絵、神道画、仏画などを描き、明治維新後は1882年第一回内国絵画共進会で審査員、
84年第二回内国絵画共進会で「藤房奉勅訪楠氏図」が銀賞を受賞。

そのほか、83年正倉院の調査、88年~94年まで全国宝物取調の任務で近畿東北等を調査するなど
文化財の調査、保護にも貢献を示し、97年に古社寺保存会委員に就任。

96年には帝室技芸員を拝命、98年より東京美術学校教授に就任。

山﨑隆夫

山﨑隆夫(やまざき たかお、1940年(昭和15)~(現在))
新潟県出身。京都学芸大学特修美術専攻卒

在学中の1965年第8回新日展にて初入選となり以降、入選を重ねる。
72年改組第4回日展にて特選、その翌年も連続特選となる。
74年より79年まで6年間は日展委嘱となる。
また、80年、改組第12回日展で審査員に就任を経て、翌年会員に推挙される。

四季の森林風景や静物などを主なモチーフとして作品を制作。

印名は「隆」など

山口蓬春

(やまぐち ほうしゅん、明治26年(1893)10月15日~昭和46年(1971)5月31日 77才没)
北海道松前郡松城町(現・松前町)生まれ。本名、三郎。

東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学。松岡映丘に師事する。

1924年新興大和絵会に参加する。
帝国美術院賞受賞。帝展審査員。
日展運営会参事、日本芸術院会員、日展運営会理事、日展常務理事。
1965年文化勲章受章、文化功労者。日展顧問。 新興大和絵の有力作家。

画風は西欧絵画の日本的表現と見られる。

葉山に山口蓬春記念館がある。

鑑定人・鑑定機関

山口蓬春記念館
〒240-0111 神奈川県三浦郡葉山町一色2320
Tel:046-875-6094

山川秀峰

山川秀峰(やまかわ しゅうほ、1898年(明治31)~1944年(昭和19))
京都出身。本名は嘉雄。

清品な美人画を得意とし、昭和3・5年の帝展で特選を受賞するなど活躍。
また鏑木清方の同門で、寺島紫明・伊東深水とともに「三羽烏」と称され人気を得た。
大正期の三越百貨店ポスターなどもコレクター間で人気が高い。
早逝のため肉筆遺品は少ない。

印名は「秀峯」 「秀峰」 「桔梗荘」 など

山内多門

山内多門(やまうち たもん、1878年(明治11)~1932年(昭和7))
宮崎都城出身。字は子弘、号は都洲のち容谷子、蜀江山房、自足園主人、藪谷山荘。

明治32年に上京。
日本絵画協会展などで出品後、第一回文展で三等賞を受賞。
以降も、文展で受賞を重ね、後に帝展推薦となり、出品、審査員として
活躍の場を帝展に移す。

また晩年には、明治神宮聖徳記念絵画館壁画「明治五年明治天皇鹿児島御入城の図」
を描いたことでも有名。

代表作に「日光山の四季」「郡上十二景」「盛夏・初冬」等。

印名は「多門畫」「山内多門」「多門之印」「多門道人」「多門書庫」「多門題人」
「山多門印」「起雲閣」「起雲閣主」「畫三昧」「號都洲」「空谷子」「子弘」「山内氏」
「多毛無」「日本画人」「日本畫人」「蜀江山房」など

山田道安

山田道安(やまだ どうあん)
本名は、初代は順貞、2代は順清、3代は順知

初代道安は戦国時代(1500年代中ごろ)の大和国山田城城主であるとともに画力にすぐれ、
始めは、周文や雪舟の技法を用いた山水画などを描いていた。
後に、中国人画家の画を研究、模倣し南画風の画を残したとされている。

号、道安は同じ印を用い、初代から3代まで続いたといわれている。
初代は永禄12年頃没。

代表作「鐘馗図」が重文指定

山田申吾

山田申吾(やまだ しんご、1908年(明治41)~1977年(昭和52))
東京都出身。東京美術学校日本画科卒

東京美術学校在学中の1930年に、帝展にて初入選となる。
卒業後は、同校研究科にすすみ、結城素明に師事。
帝文展など官展系を中心に出品し、また美校同期卒業生の「六窓会」、「一采会」などといった
グループ展にも参加する。

戦後は、日展を活躍の場として選び、50年に特選、53年に特選・白寿賞、
また60年に文部大臣賞と受賞を重ね、63年に(前年度の作品が)日本芸術院賞を受賞。

以前より風景画など写実技法には定評があったが、67年にインド・ネパールを外遊(以降度々)し
更に画風に幅を持たせている。
尚、日本画家の山田敬中は実父(次男)

印名は「申」 「申吾」など

山田敬中

山田敬中(やまだ けいちゅう、1868年(明治元年)~1934年(昭和9))
東京出身。本名は忠蔵。号は敬中、義英、可得、年忠、南窓、南斎

明治19年月岡芳年に入門。
浮世絵を学び、のち川端玉章に師事して、丸山派を修める。
文展・帝展などに出品入選をくりかえし無鑑査となる。
川端画学校教授として後進を育成。

花鳥、山水などを得意とするが、水墨画にも妙。子息に山田申吾氏がいる。

印名は「可得」「敬中」「敬中畫印」「禍中畫印」「山十敬中」など