山田介堂

山田介堂 (やまだかいどう、明治3年(1870)~大正13年(1924) 56才没)
福井県で生まれる。通称は巳三郎、別号に隻玉道人、桃陰居、寸碧。

細谷玄斎、田能村直入に師事。また富岡鉄斎への師事を希望したが受け入れられず、
京都鳩居堂主人の紹介により、門下同等の教えを受ける。
日本南画院の設立に参加し、田近竹邨らと京都南画壇の三元老と称された。

山下摩起

山下摩起(やました まき、1890年(明治23)~1973年(昭和48))
兵庫県出身。本名は山下正直。京都市立絵画専門学校卒

兵庫県有馬で生まれる。
画家を志して京都に出て、京都市立絵画専門学校及び竹内栖鳳に師事して画技を修める。
しかし、当初より既存の日本画表現に疑問を持っており、1928年に渡欧して洋画の画法を習得。
帰国後は帝展、独立展に洋画作品を展開した。
36年より、公募展への出品を一切なくし、より自由な表現を求めて個展を中心に製作を始める。
また、この頃より雅号を故郷の摩耶からとって、摩起または摩耶として、
異色の水墨画として作風を確立させており、色彩豊かな水墨人物や仏画を中心に展開した。

印名は「摩起之印」「摩起畫印」(「摩起画印」)「正直」など

山口華楊

(やまぐち かよう、明治32年(1899)10月3日~昭和59年(1984)3月16日 84才没)
京都府京都市中京区生まれ。

西村五雲に師事する。
京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科卒業し、1926年同校教員になる。
在学中より官展を中心に発表を続ける。
1938年、画塾晨鳥社を主宰。
戦後は日展の審査員を務めた他、京都画壇の重鎮として活躍した。

写生中心の画風で、動物画を得意とした。

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713
https://toobi-tocfa.or.jp/judge/

山川永雅

山川永雅(やまかわ えいが、1878年(明治11)~1947(昭和22))
東京都出身、本名は峰次郎

1995年頃より佐竹永湖に画を学び、その後、小堀鞆音に師事。
98年には小堀鞆音門下や今村紫紅を中心に紅児会結成に参加。
また、日本絵画協会、日本美術院、巽会展などで活躍を示し、文展、帝展の審査委員なども務めた。
戦後は46年に第1回日展に出品したが、その翌年に没。

佐竹永湖よりも小堀鞆音の影響を強く受けた画風を展開しており、
大和絵風の風景や人物画を得意とした。

印名は「永雅」など

矢野鉄山

矢野鉄山(やの てつざん、1894年(明治27)~1975年(昭和50))
愛媛県出身。本名は矢野民雄(たみお)、号は天癡、直幹子、鐡山(鉄山)。大阪美術学校卒

南画家・矢野 橋村の甥で、自身も画家を目指す。
始めは、小室翠雲から画のほどきを受け、次いで大阪美術学校に学ぶ。
卒業後は、1920年に帝展初入選となり、以降入選を重ね、29年33年に帝展特選を受賞。
日本南画院展にも入選を重ね、南画院賞を受賞し、同人に推挙。
新文展では、11年に無鑑査出品、18年に審査員を務め、戦後からは日展に出品した。

45年には、菅楯彦、寺島紫明、青木大乗ら関西を代表する重鎮画家らと共に、
広く新人作家の発見、育成を目的とした公募展(大美会展)設立に参加する。
また68年には、日本水墨画協会も創立している。

叔父橋村や師翠雲をよく継承し、伝統的な南画の技法を展開して
特に水墨山水や花鳥の細やかな描写に優れた秀作を残す。

印名は「民雄」「矢野民雄」「鐡山」(「鉄山」)「鐡」(「鉄」)「鐡山人」(「鉄山人」)「長樂」(「長楽」)など

矢野橋村

矢野橋村 (やのきょうそん、明治23年(1890)~昭和40年(1965) 74才没)
愛媛県生まれ。名は一智、別号は知道人・大来山人・古心庵。

1909年、大阪に出て、南画家永松春洋に師事。
日本南画院の結成に参加。
また福岡青嵐や洋画家斎藤与里らと私立の大阪美術学校を設立。
吉川英治作『宮本武蔵』などの挿絵を描く。
南画界の重鎮として活躍し、また大阪の美術振興に貢献した。

日展審査員、芸術院賞受賞。
大阪府芸術賞・大阪市民文化賞受賞。日本南画院会長

柳沢里恭

柳沢里恭(やなぎさわ さとやす、1704年(宝永元)~1758年(宝暦8))
奈良郡山出身。

儒学と画を祇園南海、儒学を荻生徂徠、書を南国和尚・細井広沢、画を吉田秀雪に
それぞれ師事する。

多彩な才能をもち、各分野に異才を示した。
特に画は、南海から中国の画風を学び、さらに独自の研究をし、精密濃彩技法を会得。
花鳥図を得意とした。

門下には、画に池大雅、池玉瀾がいる。

柳沢里恭を略し、柳里恭(りゅうりきょう)と通称される。

印名は「公美」 「群玉山房」(君羊玉山房) 「玉桂」 「柳氏公美」 「字余曰公美」 「名里恭号玉桂」
「柳澤」(「柳沢」) 「淇園」 「右琹右書」 「楚有良材」 「栖里恭印」 「柳里恭字公美」
「號玉桂」(「号玉桂」) など

安田靫彦

(やすだ ゆきひこ、明治17年(1884)2月16日~昭和53年(1978)4月29日 94才没)
本名は安田 新三郎。東京日本橋の料亭の四男として生まれる。

1898年、小堀鞆音に師事する。
青邨らと共に紫紅会を結成する。
前田青邨と並ぶ歴史画の大家。
焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わり、岡倉天心に認められ、
1907年に日本美術院に招かれた。

東京美術学校教授、文化勲章を受章。
日本美術院の初代理事。1959年宮中歌会始の召人(勅題「窓」を詠進)。
東京芸術大学名誉教授、東京国立博物館評議員会評議員、文化財審議会専門委員、
国立近代美術館設立準備員も歴任。

門下に小倉遊亀、森田曠平、益井三重子、岩橋英遠らがいる。

鑑定人・鑑定機関

安田靫彦鑑定委員会
〒104-0061 中央区銀座8-10-8 銀座八丁目十番ビル2階(有限会社 島村画廊内)
TEL:03-3571-1815

安田靫彦鑑定委員会