橋本関雪

橋本 関雪(はしもと かんせつ、明治16年(1883)11月10日~昭和20年(1945)2月26日 61才没)
神戸市生まれ。播磨明石藩の漢学者・橋本海関の子。本名は貫一。関雪というのは画号。

竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り、四条派に南画を加味した新南画を大成。
1913年、文展で二等賞、翌年も同じ。1916年と翌年、特選を受賞。帝展審査員も務める。

帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員。

1940年、建仁寺襖絵を製作。
支那古典に精通したことでも知られ、たびたび支那へ渡った。

京都銀閣寺畔の白沙村荘に住み、白沙村人と別号した。
(白沙村荘 橋本関雪記念館電網別館)
『瘋癲老人日記』のモデルとして知られる。

シュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章授与。

橋本雅邦

橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日(1835年8月21日)~明治41年(1908)1月13日 72才没)
東京木挽町生まれ。父は松平周防守の御用絵師 橋本養邦。幼名は千太郎。号は勝園。

5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け、
12歳の時に正式に木挽町絵所の当主である狩野栄信と後継者の狩野雅信に師事する。
この時同日に狩野芳崖も入門しており、生涯の親友となる。
両者は早くに頭角をあらわし、「勝川院の二神足」と称された。

1860年に結婚し、雅邦の号をもらって絵師として独立する。

第一回内国絵画共進会では、《琴棋書画図》が銀印主席を取り、同じく出品した《竹に鳩》が宮内省の御用となっている。
フェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校を開校する。
東美校初代教授(絵画科)の主任を務める。
帝室技芸員制度が発足すると第一次のメンバーに選ばる。
名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
東京美術学校では、下村観山や横山大観、菱田春草、川合玉堂、寺崎広業らを指導する。

橋本永邦

橋本永邦(はしもと えいほう、1886年(明治19)~1944年(昭和19))

東京出身。本名は乾。

橋本雅邦の子として生まれる。
東京美術学校で、寺崎広業・下村観山に師事する。
在学中に文展などに出品し入選。
卒業後は、日本美術院の再興に参加し、院展を中心として活躍する。

画風は、雅邦をよく継承し、品格のある画をよく描いた。
「能」を題材にしたものをよく残す。

印名は「橋本乾印」 「古心斎」 「永邦」 など

渡辺省亭

渡辺省亭(わたなべ せいてい、1851年(嘉永4)~1918年(大正7))
江戸神田佐久間町出身。本名は本姓)吉川、幼名)貞吉、名)義復のち政吉。

菊地容斎に師事。狩野派などの諸派の画技を学んだ。
後に、渡辺家の養子となり、日本画を菊池容斎に師事する。
1888年、パリ万国博覧会に出品し銅牌を受賞。海外で日本画に賞を与えられた最初と言われる。
以後、フランスに渡り西洋文学を研究。
帰国後、西洋風の描写を織り交ぜた花鳥図などを中心に描き、シカゴ万国博覧会などに出品。
大正7年4月2日66歳で没。

代表作に、「雪中群鶏図」など。

印名は「省亭」 「菊如史」 など

渡辺小華

渡辺小華(わたなべ しょうか、1833年(天保4)~1887年(明治20))
江戸出身。本名は諧。

渡辺崋山の次男として生まれた。
7歳のころに、父が死亡(しており、その後、父崋山の一番弟子の一人椿椿山について画を学ぶ。
幕末時は、三河田原藩(愛知県)の藩老としても奔走。

明治維新後は、1874年に豊橋に移り画塾を開く。
当時の中部一体から多くの門弟を輩出。
その一方で内国勧業博覧会展、内国絵画共進会展で受賞、明治宮殿の杉戸絵の制作を担当するなど
明治初期~中期にかけて活躍を示し、花鳥、水墨山水、人物などに秀作を残す。

印名は「小華」「小華詩畫」(「小華詩画」)「水月」「對南山」「(対南山)」「眞率家風」(「真率家風」)
「有聲无聲」(有声無声」)「如空居士」など

渡辺崋山

渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年(1793年)9月16日~天保12年(1841年)10月11日、49才没)
江戸麹町田原藩上屋敷に生まれる。

1805年、鷹見星皐に入門し、儒学を学ぶ。
1806年、若君元吉(後の康和)のお伽役になる。
1808年、絵師白川芝山に入門する。星皐より華山の号を受ける。
藩主康友に従って田原に滞在する。
1809年、金子金陵に絵を学ぶ。金陵の紹介により谷文晁に絵を学ぶ。
師の文晁に倣って南画をはじめ、様々な系統の画派を広く吸収した。
文晁は、画技のみならず文人画家としての手本となった。
1814年、絵事甲乙会を結成し、画名世に知られる。
1826年、江戸宿舎にてオランダ使節ビュルゲルと対談。この頃から画号「華山」を「崋山」と改める。

代表作としては、「鷹見泉石像」・「佐藤一斎像」・「市河米庵像」などが知られる。
弟子に椿椿山・福田半香などが育った。
学問にも励み、鷹見星皐、後に松崎慊堂から儒学(朱子学)を学び、
昌平坂学問所に通い佐藤一斎からも学んでいる。また、佐藤信淵からは農学を学んだ。

長澤蘆雪

長澤廬雪(ながさわ ろせつ、1755年(宝暦5)~1799年(寛政11))
応挙門下十哲の一人。本名は正勝、魚

淀藩士上杉家の子として生まれ京都に出て円山応挙に師事。
寛政の御所造営の際には御涼所上御間を任されて襖絵、障壁画など活躍を示す。
初期の応挙門下の中では群を抜いた存在を示した。
その他にも、南紀を遊歴中に多くの障壁画を手掛け串本無量寺、富田草堂寺をはじめ
多くの寺院に作品を残す。
また、寛政7年には香住大乗寺(通称:応挙寺)の「群猿図」の製作にも従事した。

画風は応挙門下としては一線を画した自由奔放で豪放な独自の画境を若くして確立しており
当時としても異色画家とされていた。一説によると素行の悪さから応挙に破門を言い渡されたと
されているが、正確な事実関係は確認されていなく、応挙に対してあまりに画風が相反していた為に
後世に俗説として流された物とした見解が有力的。

代表作に「官島八景図(重文指定)」「山姥図」「月夜山水図」「唐美人」「竹に犬の子」大乗寺「群猿図」など

印名は「魚」 「長澤魚」 「長魚」 「魚印引居士」 「氷計」 「長澤廬雪」 など

中村貞以

中村貞以(なかむら ていい、1906年(明治39)~1982年(昭和57))
大阪府出身。本名は清貞

幼年のころより、浮世絵の修行を積み線画の描法を習得。
1919年より、北野恒富に入門して本格的に日本画の技法を学ぶ。
23年に第9回春の院展で初入選となる。第1席を受賞。
同年の秋の(本)院展でも入選となり翌年院友に推挙、以降も院展に出品、入選を重ねる。
32年の日本美術院賞受賞を経て、36年に同人となる。
またその間に画塾「春泥会」を34年に設立して、後進の育成にも尽力。

戦後は60年に院展文部大臣賞、66年に前年の院展出品作
「シャム猫と青衣の女」で日本芸術院賞を受賞。
また地元の芸術文化向上を称されて、51年に大阪府芸術賞、60年に大阪市民文化賞をそれぞれ受賞。

当初は人物画、風景画を中心に制作してきたが、戦後からはほとんど美人画を専門に描き
緻密な描線と構図、色彩で自らの精神世界をモデル反映させ、そのモデルには長女を使って
他の美人画作家には無い、現実性を表現している。

印名は「貞」 「貞以」 「貞以印信」 「清」 など

中村不折

(なかむら ふせつ、慶応2年(1866)~昭和18年(1943)6月6日 78才没)
東京の京橋に生まれ。幼名を鈼太郎。

1887年、高橋是清の館に住み込みながら小山正太郎に師事し絵を学ぶ。
1896年、正岡子規とともに新聞「日本」の記者として日清戦争に従軍し、中国に渡り書に興味を持った。
1901年、渡仏して、ラファエル・コランやジャン・ポール・ローランスらから絵の指導を受ける。
1905年、帰国し明治美術会の後身である「太平洋画会」に所属。主に歴史画の分野で活躍した。
1934年、太平洋美術学校校長に就任。
1936年、台東区根岸の旧宅跡に書道博物館を開館した。

森鴎外や夏目漱石等の作家とも親しく挿絵や題字を書く。
不折の筆跡は現在でも宮坂醸造の清酒「真澄」や新宿中村屋のロゴに見ることができる。

帝国美術院会員、芸術院会員。

中島来章

中島来章 (なかじまらいしょう 寛政8年(1796)~明治4年(1871) 75才没)
大津生まれ。名は来章、字は子慶、別号は春分斎、神通堂。

幼い頃より絵の修業のために京都に出る。
渡辺南岳、円山応瑞に師事する。

山水人物花鳥を得意とした。
幕末における円山派を代表する大家となり、四条派の横山清暉、塩川文麟、岸派の岸連山と共に
平安四名家と呼ばれた。

弟子には、幸野楳嶺や、川端玉章がいる。