鳥居清満

鳥居清満(とりい きよみつ、1735年(享保20)~1785年(天明5))
江戸出身、通称は亀次郎。

鳥居派3代目

江戸中期の浮世絵師鳥居派2代目鳥居清倍の次男として生まれ、
父に画法を学び家業に従業。鳥居派3代目として家風の役者絵や芝居看板、番付絵などを手掛けた。
清満以降、鳥居派は清信、清倍、清満の画名を繰り返して使用している。

土佐光孚

土佐光孚(とさ みつざね、1780年(安永9)~1852年(嘉永5))
京都出身。本名は光孚 、幼名は虎若丸

土佐光貞の子として生まれる。幼少のころより父光貞につき土佐派の画技を学ぶ。
10歳にして、新造内裏清涼殿の布表紙に「墨画名所図」仙洞御所小書院の小襖に
「花鳥図」などを書く。
その後絵所預かりになり、正四位上に至る。

画風は父を受け継いだが、父よりも評価が高く幕末土佐派の代表格とされる。

印名は「藤光孚印」 「光孚」 「書院之章」 「大中大夫之印」 「後素世家」 など

土佐光吉

土佐光吉(とさ みつよし、1539年(天文8)~1613年(慶長18))
京都出身、本名は久吉

土佐光茂の次男として生まれ兄に土佐米元を持つ。
兄米元が足利将軍家に仕えていたが、戦死したためその後を継ぐも、
一時期将軍家及び宮中との関係が中絶。
その後、宮中へ調進の御年扇、御月扇を再興して献上し関係を再興させ左近将監、従五位下に叙任。
退隠後は剃髪して久翌(休翌・休欲)と号して堺に在住。

代表作源氏物語画帳」が重文指定。

土佐光重

土佐光重(とさ みつしげ、1675年(延宝3)~1710年(宝永7))
京都出身。本名は藤原光重

藤原行光(土佐行光)の子として生まれ、兄には宗家を継いだ藤原行広(土佐行広)がいる。
禁裏の御用を務め左近将監、従五位下を叙任。
内裏仙洞御所障壁画制作の際には他の土佐派画家や狩野は画からと共に参加。

土佐光起

土佐光起(とさ みつおき、1617年(元和3)~1692年(元禄4))
泉州堺出身。本名は藤光(幼名)、光起、常昭

土佐光則の長男として生まれ、承応3年に左近将監に命ぜられ、宮廷の絵所預かりとなり
衰退気味であった土佐派を再興。
光起以降絵所預かりが土佐派の主な仕事となり土佐派における重要な絵師であったことが伺え、
画風も狩野派に対抗するべく土佐派本来の伝統的な大和絵の技法に加え中国の技法を研究し、
新たな土佐派の技法を確立、土佐は中興の祖とされている。
また、延宝9年には落髪して法橋に叙せられ後に法眼となる。

代表作に「厳島松島図屏風」「北野天神縁起絵巻(重文指定)」[「紫式部像(重美)」など

印名は「土佐左近将光起印」「土佐」「土佐氏」「監将」「藤原」「土佐常昭」「光起之印」
「光」「書院待詔之印」など

土佐光文

土佐光文(とさ みつぶみ、1812年(文化9)~1879年(明治12))
京都出身。本名は光文 、幼名は延丸

江戸後期から明治初期の土佐派画家。 土佐光孚の次男に生まれ、兄には土佐光清がいるが土佐光禄の養子となる。
土佐派の伝統的な大和絵を修練し、禁裏絵所預かりとなり安政度内裏造営御用などに従事。
従四位下左近備前守に叙任、明治に入ると塩川文麟、中島来章らと共に如雲社を設立した。

印名は「光文」 「光文之印」 「藤原光文」 「藤光文」 「藤光文印」 「南極老人無窮之壽」 「韓水」 など

常盤大空

常盤大空(ときわ たいくう、1913年(大正2)~1983年(昭和58))
福島県出身。川端画学校卒

川端画学校卒業後は、1940年に第27回院展にて初入選となる。
以降、入選、奨励賞などを重ね、62年に日本美術院賞・大観賞を受賞する。
この頃から堅山南風に師事。
また68年に同人に推挙され、74年には院展文部大臣賞を受賞となる。

日本、中国などの風景や仏画をよく研究してオリエンタル溢れる独自の画風を展開。

印名は「大空」 「大空印」 「大」 など

徳岡神泉

徳岡神泉 (とくおか しんせん、1896-1972)
京都市上京区神泉町に生れる。本名は時次郎。

13歳頃、竹内栖鳳の画塾竹杖会に入門。京都市立美術工芸学校絵画科を経て、
1917年、京都市立絵画専門学校を卒業。
在学中より文展に応募するが落選が続き、絵専卒業頃から妙心寺などの寺に移り住み、参禅。
1919年には京都を離れて、富士山麓に住み《狂女》など鬼気ただよう作品を描いた。
この頃から「神泉」と号する。

1923年、関東大震災を機に近藤浩一路に薦められて再び京都にもどった。
大正末の神泉は、濃密な質感表現をめざした写実に進み、宋元画の研究から《芥子》などを描いている。
1915年、第6回帝展に初入選。翌年の帝展で《蓮池》が特選。
昭和期には次第に構成の単純化と装飾化へと向かい、古典絵画の荘重さを備えた画境を深めている。
戦中期にはさらに背景を省略し対象をクローズアップして象徴的に配した画面構成を模索した。
戦後その傾向をいっそう強めて、地塗りの効果をいかした絵肌にモチーフを浮かび上がらせる幽玄な作風を完成。
1957年、日本芸術院会員。1966年、文化勲章受章。

堂本元次

堂本元次(どうもと もとじ、1923年(大正12)~2010年)
京都府出身。本名は元次(もとつぐ)。京都市立絵画専門学校日本画科卒

京都市立美術工芸学校~京都市立絵画専門学校に進み画技を習得。
戦時中は出兵となり、帰国後、叔父の印象に師事し、1947年の第3回日展にて初入選する。
ついで、50年に特選を受賞、翌51年より東丘社に入りる。
以降は同社展と日展を中心に発表を続ける。
日展では52年に特選朝倉賞、60年に菊花賞と受賞を続け、63年に会員に推挙、
72年より評議員を歴任し、82年に内閣総理大臣賞を受賞。
87年には日展出品作「懸空寺」により二位本芸術院賞を受賞、日展を代表する画家となる。

制作当初は、師の印象が、晩年抽象的な画風を確立した時期でもあり、
その影響からか、元次も抽象と具象の狭間で葛藤があり、
日展は具象的な作品、東丘社展には抽象的な作品を出品する。
しかし、79年に中国を訪問し、自然に感化され以降は、基本に忠実な写実風景画を見つめなおしている。

印名は「元」「元次」など

堂本印象

(どうもと いんしょう、明治24年(1891)12月25日~昭和50年(1975)9月5日 83才没)
京都府生れ。本名:堂本三之助。

京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。
帝展初出展作「深草」が入選。
帝展第3回展では「調鞠図」で特選。
第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞。
第一級の日本画家として認められた。

京都市立絵画専門学校教授 帝室技芸員 日本芸術院会員 文化勲章受章。

私塾東丘社の主催者として、画壇の指導者としても活躍した。
堂本美術館(現:京都府立堂本印象美術館)を自らのデザインにより設立。

鑑定人・鑑定機関

ギャラリー鉄斎堂
京都市東山区新門前通東大路西入ル梅本町262
Tel:075-531-6164
http://www.tessaido.co.jp/gallery.html